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続・ベトナム街道 ライチ
(三菱UFJ銀行『BizBuddy』「アジア徒然考」2021年7月を再編しました)
2021年の6月初旬のある日、クール宅配便で5kg入りのベトナム産生鮮ライチが自宅に届いた。送り主は旧知のベトナム人で東京に住んでいる友人であった。早速お礼のメールを入れるとほどなくして返信があった。「昨年から解禁となったベトナム産生鮮ライチは今年は昨年よりもたくさん輸入される計画です。ご賞味あれ!」と書かれていた。
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私は以前所属していた貿易促進機関の駐在員としてハノイにいた20年以上前、ベトナム産生鮮ライチを日本に輸出できないものかと奔走したことがあった。当時のベトナムはアメリカとの通商協定すら締結しておらず、国際経済への参入を目指しつつもアジア通貨危機の不況下で輸出の伸び悩みに苦しんでいた。とはいえベトナムの輸出品は農林水産物などの一次産品であり、加工して付加価値を増やすために技術指導などを必要としていた。
ベトナム産ライチを加工品にして日本に輸出するのであれば、お酒、ジュース、缶詰、冷凍、乾燥ライチなどが考えられるが、生鮮ライチに勝る付加価値はないであろう。1999年の6月、私は日本から食品スーパーの果実の専門家と菓子メーカーの開発担当者をハノイに招き、ベトナム北部のライチ産地を訪れ、何か策はないものかと調査を行なった。本稿の情報の一部は当時の調査報告を参考にしている。
当時の日本政府のスタンスは、政府間の取り決めによって定めた燻蒸処理や梱包をし、数量を決めて輸入することが前提であって、台湾や中国からの生鮮ライチの輸入を優先するのでベトナム産はまだまだ先になるということであった。さらに、生鮮とは言っても、聞くところによれば、燻蒸処理で70度近くにまで熱するので生鮮ライチの風味は失われてしまうであろうということであった。
中国南部原産のライチは唐代から栽培の歴史があるムクロジ科の果実である。中国語では茘枝と書き、普通語発音ではリージィである。ライチという日本語の発音はおそらく広東語か閩南語(福建語)の音が日本に伝わったものであろう。枝付きのまま収穫されることからこの名がついたようで、楊貴妃が好んで食し、八日八晩の馬車リレーで福建省から長安までライチを運んだ逸話が有名である。この逸話によって日本でも生のライチを食べたことはないけれど、「楊貴妃が愛した果物」と、高貴なイメージを抱く人が多いように思う。
果実はビタミンCを豊富に含み、新陳代謝、強壮、疲労回復、浄血などに効果があるとされる。一方で、食べ過ぎると、のぼせて鼻血が出たり、吹き出物が出たり、私の友人はライチの食べ過ぎが原因と考えられるドライアイに長く悩まされている。中国では上火の食物とされ、食べると体を火照らせ、中和のために塩を付けて食べると良いとされていた。冷やしたライチをつまんで皮をむくとはちきれんばかりの白い果肉が顔を覗かせる。かじるとブチュッと果汁を破裂させ、ライチ特有のさわやかな香りが鼻腔を抜けていく。つい無意識に手が伸び、気づけばたくさん食べてしまうというのがライチである。
ベトナムのライチの季節は瞬く間に終わる。主産地はバックザン省、ハイズオン省などの北部で、収穫の南限はニンビン省(ハノイから南へ100キロ)である。収穫期は5月末から7月初旬の僅か1カ月余である。ベトナムで栽培されるライチは17種あると言われ、なかでも、種子が小さく、実が大きく、糖度が高い品種Vai Thieuという種が最も好まれ、ベトナム産ライチの8割を占める。Vaiというのはベトナム語で「ライチ」であり、ThieuはThieu Chau(潮洲)という地名である。昔、中国の広東省の潮州から来た船の甲板から捨てられたライチの種をベトナム人が拾い、それを育てたのがベトナム産ライチの始まりとされる。楊貴妃の使いがベトナム北部のハイズオン省まで来たという時代は、いわゆる北属期であり、ベトナムは中国の南部辺境という位置づけであった。楊貴妃伝説が本当だとするならば、Vai Thieu(潮ライチ)であったかは別としても、ベトナムのライチ栽培は今から1400年以上も前から行われていたということである。
このベトナム産の潮ライチは糖度が21度とずば抜けて高く、日本の夏の果物、スイカ、メロン、桃、ビワ、ブドウ、さくらんぼなどと比べても強力なライバルとなる。当然、日本政府としてもこれだけの糖度の果物を日本に入れるのを躊躇するのは当然であろう。
ライチの弱点と言えば、「旬が20日間程度と短い」ことと、「追熟しない」ことにある。追熟しないので収穫後、時間の経過とともに確実に味覚が損なわれていく。外気温保存が主流のベトナムでは、収穫後3日目から茶色に変色し始め、商品価値はどんどん低下していく。1999年当時、5月下旬に初物として出回るライチは、約200円/kg程度であった。しかし、6月中旬のシーズンのピーク時にはハノイのいたる所で売られるようになり、50円/kg程度でたたき売られるのである。
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1999年6月、専門家を連れてベトナム最大のライチ産地であるバックザン省のルックガン郡の目抜き通り、Chu通りを訪問した。通り全体がライチ市場であり、収穫した果実をつぎつぎと運び込む農民、仲買人である街道沿いの住民、ホーチミン市やダナンから遥々やって来た冷蔵トラックでごった返していた。トラックは南国産果実をハノイまで輸送し、帰路の積荷を求めてライチの産地まで足を延ばしているとのことであった。
郡の担当者に「なぜハノイに持っていって売らないのか?もっとたくさんのバイヤーが来るのでは?」と聞いてみた。すると、担当者は「売りに行けば買い叩かれるのですよ。取りに来るほど欲しい人に高く売るのがベストなのです。楊貴妃だって取りに来たでしょう」と言って笑うのであった。何とも原始的に思えたが、冷蔵トラックや大型冷蔵倉庫などが少なかった当時の状況では、確かにそうかもしれない。
ライチ通りは土埃が風で舞い、ライチの葉がそこら中に散乱し、人々の喧嘩腰の競りの掛け合いが響き渡っていた。売れ残ったライチは早々に見切りをつけられ、仲買人の住宅の裏手に運び込まれていった。「どうするのだろう?」と興味を持ち、覗きに行くと、レンガで造られた6畳間ほどの物干し台(乾燥台)にライチを並べ、石炭炉で下から熱するのである。上からは灼熱の天日が容赦なく降り注ぎ、汗で黒光りする青年が上半身裸でライチを丁寧に掻き回している。甘い果汁が蒸発しているのか、屋外なのにむせかえる程の湿気と熱気で目を開けているのも辛いほどだった。
約3日間の灼熱地獄を経て乾燥ライチが出来あがるという。赤みが薄れ茶色くなったライチは生鮮のものと比べて一回り小さく見える。実を振ればカラカラと中で音がする。爪を立て皮を剥くと中はほとんど空洞で、小指の先ほどに収縮した干しブドウのような黒い実がコロンと恨めしそうに出てくる。瑞々しい果実を世間に披露することなく、3日間のサウナ地獄の末、哀れな黒い繊維質に成り果てたライチを見た私は、やはりベトナム産ライチを生鮮のまま救い出す道はないものかと妙な正義感をたぎらせたものである。
あれから20年が経ち、すっかりベトナム産ライチのことを忘れていた私であった。突然送られてきた生鮮ライチに接しいろいろな記憶がよみがえったのである。この日本に上陸したライチは、見た目、風味、鮮度、どれをとってもかつてベトナムで食べた生鮮ライチと変わらないように感じる。燻蒸処理の技術が上がったのか、本来の果実の良さを失わずにこうして手元に届くようになったことに感動した。そして、5kgもの生鮮ライチを食べすぎに注意しながらどうやって鮮度のいいうちに食べるのか、頭を悩ませている。いずれにせよ、20年という年月を経て、ようやくベトナム産生鮮ライチに義理を果たすことができたと、どこかほっとしたのである。