
職在広州 広東省での墓参り
(時事速報 「広州から見たベトナム」第59回、2011年8月11日を再編集しました)
中国で葬儀に出たことはないが、4月の清明節(日本のお彼岸のようなもの)に広州人の同僚に頼んで墓参りに同行させてもらったことがあった。この時も一族の墓参りに見知らぬ外国人が同行したいというのだから、この同僚も最初は面食らった様子だった。ただ、幸運にもその同僚自身が一族の催事を取り仕切る立場にあるとのことで、念のため年長の親戚に確認してから「いいですよ。一緒に行きましょう」と連れて行ってくれることになったのである。ただし、私がよく写真を撮ることを知っている彼は「でも池部さん、霊園の中では写真は撮らないでください。ほかの人も嫌がるし、不吉なものが写るかもしれませんから」と念押しされた。
広州の公設納骨堂である「銀河園」という墓苑は、朝早くから大勢の人で賑わっていた。広い駐車場のような所に運動会の大会本部のような巨大な仮設テントが張られ、朝の7時頃から数千人にも及ぶ大勢の人たちがそれぞれの家の祭事のための場所取りをしていた。祭事の場所は、一族につきテーブルが1つ、ベンチが2つ置かれた四畳半位の展示ブースのような場所で行われる。日本的な寺の御堂などはなく、墓石も見当たらない。ブース内に置かれたテーブルの上には納骨堂から出してきた先祖の骨壺や位牌を置き、子豚の丸焼きや線香、供花、饅頭や餃子、タバコや紙銭などを供える。屋外なのだが、数千人にも及ぶ人たちがそれぞれのブースで線香を焚くから、辺り一面白煙が立ち込め、通路の混雑も人を掻き分けないと前に進めないほどだった。
そして、最後に紙銭(冥土に送る偽札)を燃やすのだが、これも数百の家族が各々の場所で一斉に火をつけたらおそらく墓苑が全焼するほどの業火となるだろう。4-50メートルおきにドラム缶が置かれ、皆そこに紙銭を投げ入れるようにして燃やすのである。紙銭は紙幣以外にも、携帯電話や車、バッグなどを模したものもあるが、一抱えもあるような大きな車を入れようとして係員に注意される人もいた。清明節の季節となると各地のこの紙銭が火元となる山火事が後を絶たないというから、火の管理も厳重である。「死んであの世に行ってもお金が必要なのか?」と中国人の友人に聞くと、「あの世でも賄賂がなければいい暮らしができないんだよ」と笑いながら答えた。
中国の場合、年間死者が1千万人で火葬率が約48%程度というから、未だ年間500万人もの人が土葬されていることになる。都市部では土葬するにも土地がなく、火葬した後も骨を納める墓がない。日本人がイメージする「お墓」は、広州のような都市部にもあるにはあるが、庶民が買えるような値段ではないし、新規売り出しの墓苑なども少ないという。したがって、コインロッカー集積所のような公設の納骨堂に預け、年に一回、清明節のときに出してきては親族たちが集い、そして祭るのである。
墳墓式の墓
古来、広東省や福建省、台湾の埋葬の形態は、一般的日本人がイメージするものとは違うものだ。緩やかな山の斜面に横穴を掘り、そこに石室を設け先祖代々の遺骨を納める。石室の前庭も広くなっており、清明節ともなると親戚一同が集って小さな宴を開く。日本では沖縄に伝わる亀甲墓がそれで、中国南部から沖縄にかけては、墓地は「廟」であり「墳墓」である。日本の本土が古くから、可能な限り火葬してきたのに対し、中国や沖縄は儒教の影響を受けているため、土葬の習慣が根強い。おそらく日本の本土は山林から比較的豊富に燃料となる薪を調達できたことが大きいのだろう。それでも火葬するためには費用がかかるので、貧農などは裏山のくぼみなどに遺体を安置し、自然葬を行い、墓石なり位牌は別途家の近くに用意するということだったのだろう。
儒教式の要素が強い沖縄や華南地域の埋葬方法は洗骨の習慣もある。ベトナムでもそうだが、土葬して3年すると掘り起こし、骨に付着した皮膚や毛髪を洗い流し、骨だけを小さな壺に納めて先祖代々の墓地に埋め直す改葬が行われる。骨を洗うのは長男の嫁の仕事とされ、近年は女性の人権保護の見地からほとんど洗骨の儀を執り行わなくなったようだ(那覇市の博物館に昭和40年代と思われる時代の浜辺の洗骨習俗の写真が展示されている)。華南地域や沖縄の埋葬法は遺体を岩陰や崖下、あるいは墓の内部入口付近に仮置きし、風葬によって白骨化するのを待ち、改めて洗骨してから厨子甕(骨壺)に納め、石室内に安置する。
改革開放後の中国では、農村地域でもない限り墓石や石室を家系単位で持つことができなくなった。特に都市部でその傾向は強く、清明節にもなると納骨堂から骨壺が取り出され、人込みの喧騒にまみれて子孫と対面し、また納骨堂へ帰るという祭事が毎年繰り返されている。ご先祖様にしたら「落ち着かない」季節の到来だが、先祖崇拝はそもそも現世に生きる子孫たちの行事である。ご先祖様におかれましてはご迷惑のことと存じますが、ご足労のほどよろしくお願いいたします。ということなのだろう。