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職在広州 客家円楼より

(ジェトロセンサー「間奏曲」2008年12月号を再編集しました)

不思議な造形
客家(ハッカ)の土楼、特にドーナツ型の円楼に興味があった。マッシュルームの頭半分を輪切りにし、芯の部分をくり貫いたような形。もしくは輪切りのバームクーヘンに瓦屋根を載せた形。とにかく奇怪な造形に心奪われたのである。大きいもので直径100m、全盛期には600人の一族が共同生活を営んだとされる。集合住宅という名の村であり要塞である。家長をトップに封建的な家族集団が築き上げた富と権力の具現でもある。先ごろ福建省永定県の土楼群が世界遺産に登録されたこともあり、早速アモイに飛び、車で2時間半、峠越えの山道をひた走り客家の里にたどり着いた。

客家の円楼(2008年8月)
円楼の内部(2008年8月)

峠から小高い山々を見ると狭隘な山肌を隙間なく段状の茶畑が覆い、自生する巨大キノコのような円楼が姿をあらわす。車もクレーンもない時代、山奥に随分大きなものを作ったものだ。平野は先住民に開墾され尽くされ山間にしか定住地がなかった。虎などの猛獣や山賊から一族を守るために村を土壁で囲う必要もあった。円楼は四角い「方楼」に比べ地震や台風に強い上、家長の部屋を外敵に特定されにくい利点もあった。風水を取り入れた住宅機能の完璧な配置も実現した。

中国の歴史で常に主流にいた中原(黄河流域)漢族。その高官位の有力者が都落ちしたとは言え、こんな山奥にまで落ちるのか。まるで世捨て人のように引きこもる人間の集団はあまりに排外的に見える。中原の漢族にとって広東や福建は「夷狄の地」であり、高温多湿で疫病の流行が絶えない流刑地でもあった。円楼の形と立地は蛮南の先住民と融合することを避けた客家の文化的、民族的保守性の帰結でもある。


四角い方楼を円楼が囲む(2008年8月)

秦の始皇帝没後(紀元前210年)、既に組織的な中原漢族の広東省北部や江西省南部への移住が確認されている。移住先で耕作地が不足すると更なる流転を繰り返した。福建省永定県の円楼は主に明末清初に移り住んだ客家によって建てられた。

通常、貧しい戦争難民は新天地では同化を余儀なくされる。多くの移民はそうやって移住先の民族と融合した。一方、中原の先進文明もまた南方先住民を漢化した。しかし、客家は違った。南化されることのなかった中原の古代文化は土楼や囲屋の内部で守られ、例えば客家語は古代中国語の発音をそのまま残す文化遺産でもある。現在、客家の封建的家族制は崩壊し核家族化した住民は都会へ向かった。多くの土楼が住人を失い荒廃に任せるまま放置され崩落を目前としている。

住民がいなくなった土楼(2008年8月)
円楼で暮らす人(2008年8月)

承啓楼という現役の円楼には観光バスが横付けされ、カメラを下げた中国人団体旅行客が容赦なく内部の客家人の生活にレンズを向ける。円楼内では土産物や茶店の主人が熱心に客引きをする。気高い客家のご先祖様は「ばか者!」と叱り飛ばすだろう。円楼でひっそりと暮らす現代客家人たちを今度は「俗化」の波が襲っていた。

 




 

 

 

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