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なぜ学の旅 福州の琉球人墓地

(時事速報 「広州から見たベトナム」2011年12月14日を再編集しました)
 
中秋節休暇を利用して、広州から福建省福州市に飛んだ。1泊2日の正味24時間の滞在となる短い旅だ。福州空港には16時頃に到着したが、真夏の太陽は未だ高く、琉球人の墓を探すための時間は十分あると思われた。空港を出てタクシーに乗った。運転手の林(リン)君は新婚ホヤホヤの若者で空港近くの長楽市に家があると言う。今日最後の客だということだが、帰宅を急ぐふうでもなく私の墓探しにとことん付き合ってくれた。

というのも、ネットなどで調べた琉球人墓地の所在地は「福建師範大学裏手、長安山公園の横」というひどく大ざっぱな情報しかなかった。大学の裏にある道に次々と進入するが、行き止まりだったり、大学構内に入ってしまったりと墓探しは難航した。林君は行き交う通行人に手当たり次第に「日本人の墓」「琉球人の墓」「長安山公園」などと断片情報を告げるが、皆一様に首を傾げるのであった。そうこうしているうちに、上り坂となる小道を見つけた。タクシーで入り込んでいくのだが、周りは商店や古い住宅が並ぶだけの下町風情の地域だった。通りかかった学生に聞いても「分からない」と言う。運転席側から林君が道行く人に道を尋ね、私は助手席側から別の通行人に尋ねるといった具合だ。既に太陽は正面の小高い山の稜線にかかっており、日没間近だ。初老の男性に窓越しに尋ねると、「台湾人の墓なら向こうにあるぞ」と教えてくれた。林君は「きっと台湾人墓地のなかに琉球人墓地があるのではないか」と言うので、そうかもしれないと納得してその方向へ進んだ。入り組んだ細い道が開けた三叉路まで来たが、やはり台湾墓地は見つからなかった。とりあえず車を降りて、付近でたむろする地元の若者に「台湾人の墓はどこ?」と尋ねると「あなた日本人でしょ?この先に日本人の墓があるよ」と教えてくれた。

福州市の琉球人墓地(2011年9月)

三叉路から先ほど来た道を200メートルほど戻り、1本目の細い上り坂の道を右折した。するとすぐに右側に赤色の塀で囲われた50メートル四方くらいの霊園を発見した。車を降りて、門に近づいたが南京錠で施錠されている。中を覗くと少し小ぶりだが亀甲墓が数基視界に入ってきた。是非とも園内に入りたい。気づくと、林君が近くの雑貨店に入り商店主と思われるおばさんに「琉球墓地を訪ねて日本人が来たので開けてくれないか」と相談していた。商店主は、興味津津の表情で私を見て、隣の商店のおじさんやまたその隣の商店のおばさんなどもなぜか一緒になって琉球墓園の門に集まってきた。中には管理人がいるようで、商店主たちは「日本からのお客さんだから開けてやっておくれ!」と叫んだ。すると墓苑の木の陰から迷彩服を着た初老の男性管理人が門までゆっくりとやって来て、ようやく門を解錠してくれた。林君も興味深そうに一つ一つの墓碑を確認するように見ていた。左側に3基の亀甲墓があり、墓碑には嘉慶21年(1816年)没の護送船船主、康熙57年(1718年)没の才庫官(会計係に当たるらしい)と刻まれていた。


福州の琉球墓地(2011年9月)

管理人の男性が「線香をあげますか?」と聞くのでお願いし、準備してもらった。「琉球墓園」と刻まれた線香台に手向け、おそらく自分とは全く縁のない300年前の琉球人の活躍をひたすら思い浮かべ合掌した。管理人のおじさんに幾ばくかの線香代を渡し、墓を後にした。商店主たちも帰る私に向かって「よかったね」と笑顔で手を振った。


福州市の運河のほとりにある琉球館(柔遠駅)(2011年9月)
琉球館は琉球人貿易商や貿易司の宿泊所(2011年9月)

7月の沖縄訪問で亀甲墓巡りに没頭し、琉球と福建省の文化交流の歴史に遅ればせながら関心をもつようになった。そして、具体的な証跡のひとつとして、今度は福州市の琉球墓に行きたいという思いが強くなった。そしてここ福州で琉球墓園を発見し、線香を手向けることができた。ようやく、沖縄以来の墓巡りが完結した気がしてほっとした。日没後、ホテルに向かう林君のタクシーの後部座席に身を沈めた。どっと疲れが出たのか、安堵し、体が弛緩した。車窓からぼんやりと市街を眺めていると、夜空の低い位置に中秋節前夜のまん丸の月が明るく浮かんでいた。

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