片身替わり(空間の切り分け)広瀬典丈
正岡子規の言う「月並み」とは
正岡子規が西洋芸術に触発されて掲げた「写生句」は、日常から切り離された、俳句の独自空間が生まれる中でこそ成り立ちます。彼の言う「月並み句」とは単なる平凡ではなく、駄洒落・小理屈・教訓・譬え話など、陳腐な説教に堕した句の名指しであって、けっきょく言いたかったのは、俳句は「陳腐な教訓を垂れるための道具ではない」、伝達手段ではなく「ただ在る」=即時であるとの主張に尽きましょう。
はなのいけ手にも、枝に藍染め布を吊るして「これは空を現わしている」とか、「街で太鼓の演奏を聴いて感動したので丸籠に撥見立てで枝を入れました」、横枝を平行に並べて上下に葱坊主を置き「これは五線譜で、つまり音楽を表現しました」などと、幼稚なたとえ話にかこつけて「何が伝えたいか」を語る人がいます。こんなバカ話でも無視できない理由を説明します。
子規の写生句「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」を「林檎くへば烏鳴くなり遠野上郷」と変えるとどうなるか?法隆寺の鐘は「諸行無常」と響き「見る聴く喰ふも菩薩道なり」と付ければ立派な「月並み」説教句。林檎のほうも付けると「四方あまねく娑婆世界なり」有り難くない。以上は枕です。
「片身替わり」とは
「片身替わり」とは二つ別意匠の染め布で合わせ仕立てした着物に始まり、陶器や蒔絵・いけばなにも応用された技法です。いけばなの「二つ真」では、切り結ぶ中間に板を挟んで後で抜き、板の厚み分の空間を開けたりしました。「オシャレ」と見てる人に、これは仏法の「有為転変」を現わすなどと説明が入ると、「深い」と受け売りの連鎖も起きるのが大衆社会です。
「片身替わり」は空間を切断し、視点の行き来する場を作る
「片身替わり」は「隙間覗き・掛け合い」、何でもいいですが、とにかく目が行き来する二つの分かれた空間を生み出します。いけばなは主材・客材の対比の定型で日常を切断しますが、「片身替わり」はさらにその内空間を分けて、視点の行き来する場を作るのです。→広瀬テキスト50p
場面の切り替え・掛け合い
俳句でも切れ(や・かな・けり)で場面を切り替え、掛け合いに持っていくのがふつうです。視点の行き来=対話の場は、作り手の個人的な思い入れから作者を解放します。連綿と過去につながるこうした仕掛けを知らず、ただ定型の場に寄りかかって好きな花を押し込むだけでは、「これは何を表現しているのですか?」と尋ねられるのが落ちでしょう。目指すべきは「ただ在る」それだけのいけばなです。