占い・スピリチュアルと私の半生~姓名判断編~
はじめまして!AOY CREATEの池田です。
『ikeari』というライター名で記事や取材を行っていたり、ロゴをメインとしたデザイン関連のお仕事をいただいております。
実は私、占いやスピリチュアルが大好き。周りに不思議なことがあふれた人生を送ってきたので、正直全然違和感がないんです。
今日は、占いやスピリチュアル・不思議なことを中心に、ざっくりと私の半生について書きます。
ずらっと書いてみると、自分自身を振り返るとき役に立つかなぁっていうのもあって、背景も詳しく書いていきます。
それではさっそく、スタート!
誕生~福岡引っ越し
1991年3月7日、母の実家である和歌山県に生まれる。ちなみに私の妹(3つ年下)も同じ誕生日。そして、祖父母の結婚記念日。3月7日はかぶり放題です。
鹿島(鹿児島ではない)に引っ越したり、確か生後半年?くらまで色んなところにいた、らしい。ぶっちゃけ覚えてない。
福岡県北九州市小倉北区に引っ越し。幼稚園に通い始めます。住金(現在の西鉄)の団地に住んでいました。この頃、幼馴染ができます。男の子で、もう20年を超える付き合い。5年は会ってないけど、今でも挨拶はハグです(多分)。ちなみにこの幼馴染は、次のnoteでもう一度登場します。
他にも団地で一緒に遊ぶ子はいっぱいいたけど、正直名前は覚えてない。小学3年生まで一緒だったんだけどなぁ……記憶がないです。嫌いだったのかな←
急性腎炎発症、体調不良といじめ
7歳くらいまで、ずっと身体激弱でした。すぐ風邪引く。骨も、幼稚園で腕を、小学校1年生で足首を折ってます。ちなみに足首は雨の廊下を走って転んだだけで折れた(走るな)。そして、急性腎炎になりました。記憶が正しいかは分からないけど、「ママ!来て、なんかおしっこ黒い!」って言った覚えがある。ほんまに黒かったんかなぁ。どうなんやろ。
で、病院へ。急性腎炎の診断を受けます。けど、その診断をするために撮ったエコーで、腎臓を見てびっくり。片一方の腎臓がなかったんですね。どっちやったっけ??忘れたけど、右か左かがないんですよ。腎臓がひとつしかないのに、その腎臓が炎症起こしちゃって。
1~2か月くらい入院して、そのあと自宅療養を何か月か。確か小学1年生の時は、半分以上お休みしてたと思います。通学してからも、体育の授業はずっとお休み。見学です。みんなが嫌いなマラソンも、ずっと見てるだけ。
そして、何より辛かったのは給食。腎臓に負担がかかる、塩分が多い食べ物は食べちゃダメだったんです。給食の、にゅう麺みたいなラーメンとか。汁に塩分が多くて、汁なしの味のしない麺だけをすすってたり。食パンについてるマーガリンに塩分が多いから、味っけのない食パンをそのまま食べたり。
クラスメイトからすれば、体動かすときはずっと見てるだけ、食事も毎日違うもの。
普通に考えて、そりゃイジメられるよねぇ。馴染むわけないし。笑
そして自己主張しない、少し遠くからみんなを見て、「なんかうるさいな」と思う暗い女子が誕生しました。
姓名判断との出会い
そんな身体よわよわフィーバーだった私。
なんとかしたいと、母が、現地で有名な占い師さんにみてもらいました。すると、私の名前の画数が悪いと。『姓名判断』との出会いですね。
北九州の若松?戸畑?どっちだったかな?の、『瀧』という占い師さんだったと思います。そして、「安理沙」を「あり沙」にしなさい、と。
で、戸籍は変えてないけど、持ち物に書く名前も、テストに書く名前も、学級名簿も「あり沙」に変わりました。すると不思議なことに、風邪を引きにくくなったり、いじめられていたのが、馴染めないだけ程度におさまったり。笑 これが最初の「不思議」との出会い。早いねぇ。
ちなみに母は、無宗教だけど、この占い師さんから水晶とかお札とか買ってました(今思えば結構お金使ってたかもしれない……!)その後は、年1回占いしてもらって、その年のお札貰って、っていうのが中学3年?くらいまで続きました。今では完全に縁が切れております。
まぁそんなこんなで、「あり沙」と表記することが小学校~高校生まで、ずっと続きました。不思議がる友達にも「なんかこれがいいんやてー」と説明。それはちょっと面倒臭かった。
そのため、「AOY CREATE」も「ikeari」も、「池田桉理沙」も、独学で画数めちゃ考えてます。こだわってます。「桉」なんて、名前に使えない漢字だからね。
……と、姓名判断との出会いだけで2000文字近くになってしまいました。
記事分けます。笑
次は、霊の見える女系一家とのお付き合いです。