私が小学校の支援員になったワケ
自分にとっての「はたらき方」について語る「#私らしいはたらき方」投稿コンテストで賞をいただきました。
賞をいただいた投稿はこちら。
小学校の支援員をしていたときに出会った少年との一年間をラブレター形式で綴った「5年生だった君へ」という文章です。
note事務局から受賞の知らせを受け取ったときは、一瞬何が起きたのか分かりませんでした。コンテストに応募していたこと自体、すっかり忘れていたので 笑。
noteのいいところは、ハッシュタグを付けるだけで気軽にコンテストに応募できること。今、開催されているコンテストをチェックして、それに合わせて文章を書く人が多いとは思いますが、私の場合は、書いた文章がコンテストの内容とたまたまマッチしていたので、応募してみたというのが本当のところです 笑。
でも、「私のこの体験をたくさんの方々に読んでいただけるきっかけになるのかも」と思うと喜びが湧き上がりました。
そして、審査員特別賞に選んでくださった審査員のこばかなさんの言葉に温められました。誰かに何かが届いて、感じたことを伝えてもらえるって嬉しいことですね。
1回目に読んで涙が出て、もう一度読んでみたらまた涙が出るような作品でした。家庭環境が厳しい少年ショウさんと共に、支援員であるIKEDAさんも成長する物語です。ショウさんと少しずつ心が通い始めるその文章から、IKEDAさんの愛を感じました。IKEDAさんとショウさんが再会できますように。(こばかなさん)
当時、揺れる私を支えてくださった大好きなカウンセラーの大野先生、いつも安心で温かな傾聴の練習の場を提供し続けてくださったスタッフの堀さんと塙さん、傾聴の練習場の仲間の皆さんに感謝の気持ちを贈ります。
そして、私と出会ってくれたショウさんにありがとうと大好きの気持ちを。あなたに会えてよかった。
私たちの物語を読んでいただけたら嬉しいです。
* * *
せっかくの機会なので、今日は、私がなぜ小学校の支援員になったのか、そのワケを少し語りたいと思います。
子どもの心に寄り添う活動がしたい
下の子が小学校に上がり、少し手が離れた頃、専業主婦だった私は、何かを始めたいと思いました。そう思ったときに「子どもの心に寄り添う活動がしたい」という漠然とした望みが生まれました。
「子どもの心に寄り添う」といって頭に浮かんだのはスクールカウンセラー。我が子が小学生だったので、学校を巡回しているスクールカウンセラーにアポイントをとって、仕事の内容やその仕事に就く方法を聞きました。
スクールカウンセラーになるためには、指定大学院を修了し、臨床心理士の資格を取得する必要があることが分かり、まずは大学院に入るための予備校に通い始めました。
院試に向けて勉強することが山ほどあり、時間が足りないと思った私は、子どもたちが学校にいる平日の日中はもちろん、休日も予備校に通い、講座を受講しました。目標に向かってがむしゃらに勉強をしていたある日、ふと「本当は家族と一緒にいたいのに、なんでそれを我慢してまでやっているんだろう」という疑問が頭をかすめました。
いずれ子どもたちも大きくなって、親よりも友達と過ごすようになっていく。家族で一緒に過ごせるこの貴重な時間を、私は本当に勉強に充てたいのか。悶々としながらも、「一度やり始めたことは途中で投げ出してはダメ」「これだけお金をかけたんだからもったいない」という考えが頭をもたげて、やめるという決断ができませんでした。
恩師との偶然の再会
そんなある日、最寄り駅の構内で、小学校時代の恩師にバッタリ再会したのです。
恩師の先生は、近くの博物館を見学するため子どもたちを引率していました。思わず声をかけると、先生は怪訝そうな表情を浮かべました。「〇〇小学校で担任をしていただいた〇〇です」と伝えると、「ああ!」と思い出したようで、「僕はこの小学校で校長をしているから、よかったらいつでも遊びにおいで」と言って名刺を渡されました。
しばらくして、私は恩師の先生に会いに行きました。そして、「子どもの心に寄り添うような活動がしたいんですが、臨床心理士の資格を取るか迷っています」と相談したところ、「それなら、うちの小学校で支援員をしてみたら?」と提案されました。「やってみて、もしこれは違うなと思ったらいつでもやめていいから」と、昔と変わらない軽いタッチで声をかけられたこともあって、とりあえず新しい一歩を踏み出してみることにしました。
小学校の支援員になる
私は、子どもたちの障害の状態に応じた学習をする少人数クラス「個別支援級」のサポートに入ることになりました。発達障害の子どもたちの特性を書籍で読み、何となく頭で理解していた程度だったため、まずは担任の先生方の対応を観察して、真似していくことからスタート。
目が合わない子や言葉でのコミュニケーションが難しい子もいて、はじめは戸惑いましたが、一緒に過ごしていくうちに、その子の気持ちや言いたいことが分かるようになっていきました。今となっては笑ってしまうような失敗や葛藤もたくさんありましたが、子どもたちと少しずつ心を通わせていく過程、子どもたちと一緒に笑い合う瞬間、子どもたちの成長を本人や先生とともに分かち合うひとときが大好きで、私はいつの間にか支援員の仕事にのめりこんでいきました。
こうして、臨床心理士の資格を取るのはやめようと自然と思うようになりました。今思えば、私がやりたかったことは、子どもたちと心を通わせて、成長を近くで見守ることだったので、スクールカウンセラーのような仕事がしたかったわけではありませんでした。
夢中になって読んだ本と同じ体験をする
支援員になって大分経ったある日、思い出したことがあります。
それは支援員になる10年以上前のこと。上の子を妊娠中、トリイ・ヘイデンの「シーラという子」という本に出会い、夢中になって読みました。重い情緒障害児クラスの教師をしていた著者の回想録で、辛い現実も描かれていますが、トリイとシーラが少しずつ心を通わせていく過程に深く感動したのを今でも鮮明に覚えています。
「シーラという子」を思い出した時、自分もトリイと同じような体験ができていることに気づきました。そして、支援員をやめた今、トリイのように回想録を書いている私がいて、不思議なつながりを感じています。
子どもたちの居場所づくり
また、支援員をしていく中で、様々な子どもたちと出会いました。厳しい家庭環境にいる子、クラスに居場所がない子、発達障害の特性があって生きづらさを感じている子。
そんな子たちと過ごすうちに、家庭や学校以外の第三の居場所づくりをしたいと思うようになりました。そこで、当時話題になっていた「子ども食堂」の立ち上げをひそかに検討し始めました。気になった子ども食堂を見学し、主宰者の方々に話を聞きました。
すると同じタイミングで、一緒に仕事をしていた先生に「実は、子どもの居場所として子ども食堂をやりたいと思っているんだけど…」と告げられました。子どもたちへの熱い思いがある、とても温かい先生だったので、一緒に子ども食堂ができたらどんなにいいだろうと嬉しかった覚えがあります。地域の民生委員、児童委員、農家の方々の協力を得て、なんと3ヶ月後には子ども食堂を立ち上げることができました。
学校・地域・家庭が連携した子ども食堂
おそらく、全国にある子ども食堂の中でも、学校の先生が主体になった子ども食堂というのは珍しいのではないかと思います。当時、どこの子ども食堂も、子ども食堂を必要とする子どもたちになかなかアプローチできないという課題を抱えていました。私たちは、学校で気になる子どもや保護者に直接声をかけて子ども食堂につなげることができました。また、校長先生が理解のある方で、全面的に協力してくださったのも大きかったです。
こうして、学校と地域と家庭が連携した、新しい形の子ども食堂が誕生しました。
何をしてもいいし、何もしなくてもいい。自由でのんびりとした空気が漂う居心地のいい場所で、大人も子どもも思い思いに過ごします。徐々にリピーターが増えていき、学校で子どもたちに会うと、「今日、子ども食堂に行くね!」と声をかけられました。
校長先生をはじめ担任の先生方も、仕事帰りに子ども食堂に顔を出してくださり、子どもたちと一緒に遊んだり、夕飯を食べたりして、学校とはまた違ったゆるやかな時間を過ごされてました。お母さんたちも、家事や子育てからいっとき解放されて、ほかの参加者や先生と楽しそうに談笑する姿が見られました。また、普段小さい子どもと接する機会があまりない小学生が、「可愛い!」と言って、積極的に乳幼児のお世話をする微笑ましい光景もありました。
6年生は、卒業したらもう会えなくなると淋しく思っていましたが、中学生になっても部活帰りに子ども食堂に顔を出す子が意外と多くて、嬉しい誤算でした。
恩師の先生との偶然の再会から、小学校の支援員を始めてみたことで、思いもよらない展開が生まれて、素晴らしい体験ができました。また、子どもたちと過ごすことは、今この瞬間を生きる感覚、無邪気さ、感情を素直に出すことを思い出して、私の子ども心を取り戻す大切な時間でもありました。
この10年で出会った人たちとの数々のエピソードが、今なお私の心を温め続けています。
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