注文の難しい美容室
はじめましての方もこんばんは。
池村といいます。
田中みな実さんと結婚したいと思っています。
床屋に行きました。よろしくお願いします。
それでは、はじめます。
よろしくお願いします。
ep.1
僕は髪の毛に関して、美容室なんてとても行く勇気がないので、1000円カットで済ませています。
1日にたくさんの客をさばくことで採算をとっている、大量生産型ビジネスモデルであるため、僕にかけてくれる時間は約10分。
だから、最初の注文から途中のやりとりまで、慎重に言葉を選んで受け答えしていかないと、悲劇を招く可能性があります。
入店
美容師は女性
育児を終え、かつて取得した美容師免許を武器に、ここに再就職して昼間働いているような、いくつかのライフイベントを乗り越えてきた包容力のありそうな印象。
料金を前払いして、あの回転イスに座らされ、レインコートみたいなのをかけられます。
ここまで会話はなし。
最初の質問
Q1)いかがいたしますか?
難題です。
瞬時に、選択肢を思い浮かべます。
A1-1)伸びた分だけ。
A1-2)さっぱりしてください。
A1-3)雑誌を見せる。
どれを選択するかによって、バタフライ・エフェクトで未来が変わっていきます。
まず選択肢1-1)伸びた分だけについて考えます・・・
無難だけど別に前回も納得していたわけではないし、前回のことなんて覚えていなかったら、なんて自分中心の劇場型人間なんだろうと思われてしまいそうで恥ずかしい。そもそも1ヶ月1 cmくらいの計算だろうか?そうすると3ヶ月くらい前に来たから3 cm?少し攻めすぎだろうか?
選択肢1-2)さっぱりしてくださいについて考えてみます・・・
これは少し抽象的なため、相手の受けとり方に依存してしまわないか。もしこの美容師が学生時代に運動部で活躍してたようなタイプだったら、角刈りのイメージからすり合わせが始まるリスクすらある。バリカンを使うか否かの選択もしなければならなくなるかもしれない。どうやら避けたほうがよさそうだ。
念のため選択肢1-3)雑誌を見せるも考えてみます・・・
イメージを伝えやすいという点では、実は②よりも優れた選択なのかもしれない。だがモデルあっての髪型、お前は生まれ変わることを望んでいるのか?美容師としても格差を埋めることはできない。愛想笑いして受け流されるかもしれない。いずれにしてもリスクが高すぎる。論外だ。
結果的に少ししか切らず、短期間で何度もここに来ることになってもつらいので、(あまり髪を切るということを合理的に捉えているわけでもないですが)選択肢1-1を選ぶことにします。
→A1-1)伸びた分だけ。
A1-2)さっぱりしてください。
A1-3)雑誌を見せる。
どの選択肢を選んでも、それぞれの先には別の未来が待っています。
ひとまず難題を乗り切りました・・・
セーブ
《たび人》
あめの稲田の中を行くもの
海坊主林のはうへ急ぐもの
雲と山との陰氣のなかへ歩くもの
もつと合羽をしつかりしめろ
日本近代文学館, S47, p141-142
しかし賢者モードの僕に対して早くも美容師が問いかける新たな質問
Q2)さっぱりする感じです?
・・・何を言っているんだ?
まさか選択肢1-1に選択肢1-2が包含されていたのか??
僕は途方にくれて、次の選択肢を思い浮かべました。
今日も田中みな実さんと結婚できませんでした。
(つづく)
ep.2
このパラレルワールドの中において、毎分毎秒が分岐点。
僕は常に選択しなければならないし、一度選んだら引き返すことはできないことはわかっています。
堂々巡りの美容師の質問を招いてしまった自分に愕然とした僕はゲームを再開
Q2)さっぱりする感じです?
前回同様の質問なので、まずは前回の選択肢をが瞬時に思い浮かぶ。
A1-1)伸びた分だけ。
A1-2)さっぱりしてください。
A1-3)雑誌を見せる。
しかし前回、練りに練ってA1-1を答えて陥っているこの状況、もう少し具体的に答えることにした。
A2)前髪が立たない程度に切ってください。
すると美容師はこう言った。
Q3)前髪全部切っちゃう感じですか?
!?!?
直毛で、切りすぎると立ってしまうので、そうならない程度の長さに切って欲しいという意味だったのだが…やはり「何センチくらい」とか「眉毛くらいまで」とか自分のルールを決めておくべきなのか?つまり、今後一切、僕には前髪の長さを変更することは許されないということになる。歳を重ねて前髪が後退するペースを考慮に入れて、少しずつ前髪のラインを上げていけばいいのか?仕方ないので、正直にこう答えた。
A3)直毛で、切りすぎると立ってしまうので、そうならない程度の長さに切って欲しいという意味です。眉毛くらいでいいです。
「はねちゃうんですね、わかりました」
said 美容師。
僕は「はねる」と言うテクニカルタームを覚えた。少し勢いづいて、追加で発言してみた。先手必勝だ。
A3')後ろは軽く刈り上げて、耳は出していいです。
「えりあし軽く剃って、横は切りますね」
said 美容師。
これは伝わったのか?どんな注文しても、男子の場合だいたいそうなるのではないか?僕specificな要素って今のところあるのか?もうどうしたらよいかわからない混乱の中で、ひとまず僕はセーブすることにした。
セーブ
《竹と楢》
煩悶ですか
煩悶ならば
雨の降るとき
竹と楢の林の中がいいのです
(おまへこそ髪を刈れ)
竹と楢との青い林の中がいいのです
(おまへこそ髪を刈れ
そんな髪をしてゐるから
そんなことも考へるのだ)
日本近代文学館, S47, p142-143
このパラレルワールドの中において、毎分毎秒が分岐点。
僕は常に選択しなければならないし、一度選んだら引き返すことはできないことはわかっています。
今日も田中みな実さんと結婚できませんでした。
(つづく)
ep.3
美容師は笑っているように見えた。
僕らは、この感染症の蔓延以降、目で語るようになった。
「マスクの紐を十字にしてください」
said 美容師。
これは適応だ。
AIdH
Adaptation to Infectious diseases
by the Hairdresser
僕が美容室という場所に適応するスピードを超えて、美容師たちは感染症のリスクを最小化しつつ、他人の髪を切る術を身につけてゆく。
僕は不織布のマスクの紐を耳から外し、十字にして、また耳にかける。耳にかかる髪が紐に押さえられることなく解放される。誤ってマスクの紐が切られて、これにより僕の口元が解放される可能性が低減される。僕のA3'が実現可能となる。
他愛もない日常の中で少しずつ修正されていく僕らの歩き方。そして、その修正をこれまでより強く後押しする外圧。
80年や100年の周期でパンデミックが起こるという。そのたびに僕らは進化する。一個人のスケールを超えて、ひとつながりの時間軸の中で、人類の叡智が積み上げられていく。
人が人の髪を切るようになって、どれだけの年月が経つのだろう。一方、僕は人に髪を切ってもらうようになって、まだ数十年。いまだ適応できなくて当然かもしれない。
と、ここでセーブしてきたのが今までの僕だ。
鏡の中の自分を見つめて思う。
Q4) 僕はどんな顔をしていただろうか?
切られた髪が舞う。
Q5) マスクありきの仕様なら、新しい髪型にも挑戦できたのではないか?
大きな変化の中で起こす小さな変化。
Q6) 進化のチャンスだったんじゃないか?
美容師に話しかけようと僕の口元が緩む。
でもマスクに隠れて相手には見えない。
僕は目を閉じた。
ここは注文の難しい美容室。
これまでの美容師の質問は全てこう変換できる。
Q) あなたは変わらないのですか?
このパンデミックは、こんなところでも僕たちを試している。
今日も田中みな実さんと結婚できませんでした。