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珈琲栽培が広まった経路

本格的な珈琲栽培は珈琲のカフワが広まった15世紀頃のイエメンで始まりました。
15世紀後半から16世紀にかけて珈琲がイスラム圏に広がるとともに珈琲生産も拡大していきました。
1538年にはイエメンを支配したオスマン帝国が住民たちに珈琲栽培を奨励した記録が残ってます。オスマン帝国は珈琲生産を独占するため、イエメンからの種子や苗木の持ち出しを禁じていたといわれてます。
しかし、17〜18世紀に2つの異なる経路でイエメンから珈琲が持ち出され、それぞれティピカとブルボンという二大品種グループとして世界に広がっていきます。

ティピカの経路

・イエメン→インド

ババ・ブダンというイスラム聖者がイエメンのモカで盗んだ7粒の種子をインドに持ち出した説があります。17世紀末にはインドで既に珈琲の栽培が行われていました。

・インド→インドネシア ジャワ島

1696年と1699年の2回にわたり、オランダ東インド会社は珈琲の木をインドからインドネシアのジャワ島に持ち込んで栽培に成功しました。

・インドネシア ジャワ島→オランダ

1706年に数本の苗木がジャワ島からオランダに送られました。

このイエメン→インド→インドネシア ジャワ島→オランダの流れで伝わっていったのがティピカという品種です。

ブルボンの経路

ティピカは盗みの連続で広まっていきますが、ブルボンはイエメンから正当な流れで広まっていきます。

・イエメン→レユニオン島(ブルボン島)

珈琲の木が欲しいというフランスからの願いを受け、1715年に60本の珈琲の木を渡しました。
珈琲の木は当時のフランスの植民地だったレユニオン島(ブルボン島)に運ばれました。
それから子孫が増え、レユニオン島はフランス領初の珈琲生産地として成功します。
このレユニオン島(ブルボン島)から広まっていったのがブルボンという品種です。

・レユニオン島→ ブラジルのサンパウロや東アフリカ


1858年頃にレユニオン島からブラジルのサンパウロに渡りました。
また、1877年にはフランス宣教団がレユニオン島から東アフリカに移入しています。この木は1880年にイエメンから移入されたイエメンモカと農園で自然交配され、新芽の色が茶色の「フレンチミッションブルボン」が生まれました。これが現在のタンザニアやケニアでよくある、SL28やSL34などの品種の起源です。
このように広まっていったのがブルボンという品種です。



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