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【先生備忘録③】たとえ机を破壊したとしてもきみが優しいことを信じてるよ。

”困った人”という言葉を聞いたことがある人は多いかもしれません。
あの人の行動には困るなあ、なんであんなことするんだろう、困った人だ。
このように。

”困った子ども”という言葉を何度も聞いたことがあります。
あの子は人の気持ちがわからない、謝れない、ものを壊す、暴力を振るう…困った子だ。こんなふうに。

”困った子は困っている子”という言葉を聞いたことがあります。
傍目から見て人に迷惑をかけているように見えている子は、実はその本人が一番困っているのだ、という意味です。

困った子の周りの子たちは、その子の言動に困っていたかもしれませんが、困った子もまた、とても困っていました。
そんな子たちにたくさん出会ってきました。

仲良くしたいけど、できない。
言葉で伝えたいけど、できない。
静かにしたいけど、できない。
怒りたくないけど、できない。

困っている子たちは、みんな方法を知らなかったり、怯えていたり、途方に暮れたりしていました。

(便宜上、細かな部分が事実と異なっています。) 

クラスの中の一人の子が、私の出張中に机を破壊して空き教室に立て篭もったという連絡を受け、出先から蜻蛉返りしたことがありました。
まだまだ経験の浅かった私は、心の底から困りました。
どうして、どうしたら、なにがあって、なにをいえば、どう連絡すれば、

今までにないことが一度に襲ってきたように感じ、詳細を記憶できないほど混乱したことを覚えています。その子の立て篭もる部屋の前でスーツのまま床に座り込んでいた場面だけは鮮明に思い出すことができます。

今思うと、その子はありとあらゆることに困っていました。
自分の体の成長も、
周りの子の心の成長も、
難しくなっていく勉強も、
いらいらすると抑えられなくなる心も、
まとわりつく制服も、
厳しい家庭環境も、
わかってくれない担任も、
従うことを強制される細かいルールも、

その子にとって、周りはあまりにも理解し難いものばかりでした。
そして、その子を困らせていたもの、その中に担任である私も入っていたのだと今なら理解できます。 

私は、その子自身を見ていませんでした。
その子の行動を、その子の本意としてのみ対応していたのです。
本当に「対応する」という言葉が相応しいほど配慮や理解やあたたかさに欠けたものだったと思います。その子の友だちへの態度を咎め、暴力を振るわないよう厳しく言いつけ、学習に向かうよう言い含めました。私は、その子の行動が、その子の本意だと思っていたのです。その子がわがままで友だちにひどい言葉をかけ、腹いせに物に当たり、怠惰から学習意欲が乏しいのだと。
その子のことを考えて、指導して、導いているつもりが、その子にとって、目の前の大人は自分のことを知らず、理解しようとせず、信じてくれない残念な担任だったことでしょう。

1人の人間として見ようともしていないのに、教育という大きなものをかさにきて、偉そうに注文ばかりつけてくる。
誰がそんな人間のいうことに耳をかすでしょうか。

その子は生き物がとても好きな子でした。
特に犬が好きでした。
人懐っこい子でした。
図工と体育が好きな子でした。
夏が好きで、プールが好きな子でした。
字を書くのが丁寧な子でした。
家族を大切にしている子でした。
小さな怪我を気にする子でした。
冗談が好きな子でした。
悲しいときに静かに泣く子でした。
とても、優しい子でした。

私がこれらのことに始めから目を向けて、わかろうとしていれば。
机を破壊したとしてもその子の本当の姿を知っていれば。

あのとき、その子がひとりで閉じこもった部屋の外から、 

「大丈夫?怪我してない?」

と声をかけることができていたら。

行為を指導し、本人を否定しない。
教育書に並ぶ言葉は、いつも正しい。
ただ、それを体得するには経験が必要です。

その子と向き合ったあの放課後の廊下で、私は心の底からその言葉の意味と今までの私の指導(と自分が思っていたもの)の愚かさを学んだのです。

その子への支援は、その後広がり、専門家の方も交えることになりました。
私1人が専門的な指導や支援をすることは非常に難しいです。
それでも、全ての支援や指導の基盤となりうるのは「信じてもらえる安心感」だと思っています。

大丈夫。
あなたは優しい人だよ。
信じてるよ。 

「自分はわるいやつなんだ。」
「どうせ自分なんて…」
困っている子は周りの人間の反応からそう思うようになることがあります。
そんな、本人さえもが自分のことを肯定的に捉えられないときときに、 

あなたがそう思えなくてもいい、
私があなたのことを優しい人だと思っているから。

そうてらいもなく言い切れる強さがその子を照らす光になると信じています。
この人は、自分のことを手放しで肯定してくれる。信じてくれる。何があっても自分を見捨てないだろう。
子どもがそう思えるくらいに、強くありたい。

しかし、これは性善説を盲信するように子どもを天使だと思いこむこととは違います。してしまった行為は変えられませんし壊してしまった物、傷つけてしまったものは謝ってもお金を払っても元には戻りません。間違いを犯さない人はいませんし、子どもなら当然人間関係でうまくいかないことや、明らかにいいとは言えない行動をすることも多々あります。

何か問題が起きたとき、問題の発端はおそらくあの子がこのように行動したことだろう、そしてその原因はきっとこうではないか…。今までの経験と知識から冷静に原因を突き止め、素早い判断をくだし、厳しい対応を求められる場面が多くあります。あの優しい子がこんなことするはずはないと耳を塞ぐのではなく、正確に状況を判断し目星をつけて即座に動かないといけないときがあります。

それでも、

と思う気持ちが必要なのだと思います。

それでも、あなたが優しいことを知っているよ。
何があったか、何が悲しいか教えてほしい。
これからどうすればいいか、一緒に考えよう。
あなたが笑顔ですごせるように、私にできることをしたいんだ。

どの子にも、心からそう思い、心からそう思っているのだと信じてもらえるくらい、強くありたい。


自分の先生時代にどこまで辿り着けたかはわかりません。
まだまだ未熟なところばかりだったと思います。
読んでいただいてありがとうございました。

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