『盗まれたのは、僕の不安定。のち、スーパーカブ』
この前、clubhouseで喋った声優の専門学校に通っている子達が、新聞奨学生をやってるって話を聞いて、僕も大学時代やっていたので、その時の事を懐かしく思ったりしましてね。
新聞奨学生というのは、当時の話になりますけど、各新聞社によって若干条件は違うのだけど、配達や集金など、新聞配達業務をすることで入学金も学費も払ってもらえる上に、給料ももらえて、さらに住まいや病院代、場所によってはご飯までついてくるし、4年間勤めあげたら、海外旅行も行けるというまさに至れり尽くせりの制度です。
もし、自分のお金で大学に行きたい、もしくは行かなければならない事情があるって方がいれば、選択肢に入れて良いと思います。
勿論、仕事はまあまあ、キツイです。日曜の夕刊以外は毎日朝夕配らないと駄目ですし、休みも1月2日以外、基本ありませんでしたから。
だいたい大学時代なんて、特に高校時代の寮生活でガッチガッチに束縛されてた僕なんて、自由が楽しくて仕方なかった時ですから、遊びまくって、よく寝ずに朝刊を配ってましたね。
もし、変なテンションを醸し出す大学生くらいの新聞配達員を見かけたら、そっとユンケルを渡してあげましょう。
僕は2回生からは、たまたま高給で楽なバイトをいくつか紹介してもらえたので、新聞配達は1年間しかやりませんでしたけど、新聞奨学生がなければ、親の支援どころか、親に仕送りする事が大学に行かせてもらう条件だったので、その制度がなければ、当然、入学金が払えず大学にも行けてませんし、そうなると、全く違う人生を歩んでいたわけで、今があるのはその制度のお陰だと思います。
で。ですよ。この頃から、勿論すでに不運に愛されておりましたから、その1年間だけでも、相当数のアンタッチャブルな追憶があるわけでして、
『朝新聞配ろうと思ったら、家の前にとめてたカブが盗まれて、噂ではそのカブは東南アジアに送られたらしい』とか、
『カブを運転中に寝てしまい、電柱に突撃したけど、自分の身体より飛び散った新聞を心配するほど配達員魂が宿っていた』とか、
『配達先で夜中の夫婦喧嘩に巻き込まれ、とばっちりを受けた』とか、
『配達中にぎっくり腰になって、這いずりながら新聞配ってたら絶叫された』とか、
エキサイティングなタイトル満載なんですけど、その中で、数少ない心温まるエピソードを語ろうと思います。
とある大きなマンションも配達コースだったんですけど、まとめて何十部かをそのマンションの決められた場所に置いておけば、マンション内は配ってくれる方がいまして、で、その方は若い綺麗な奥様だったんです。
始めは、たまに新聞を置くときに顔を合わせて挨拶するくらいだったんですけど、ある日、温かいコーヒーが保温パックと『いつもお疲れ様』と書いたメッセージと共にありましてね。そうなりますと、こちらもお礼の手紙を返すわけで、そしたら徐々にこちらは学校の話や音楽の話、その奥様は家族の話や旅行の話などなど、メモ書きから、メッセージ、そして手紙という風に、文通のようなやりとりになっていったんです。
その最中、ぎっくり腰になって何日か休んだ時なんかは相当心配して頂いてたみたいで、配達に復帰した日にはその方が泣くんじゃないかというくらい心配してくれまして、まだ夜が明けるまで幾分かある時間にずっとコーヒー片手に、初めて立ち話をしました。新聞配らないとッ、と、お互いに時間を気にしながら。
そこから一段と親しくなりまして、僕なんかは親元を飛び出して来てる身ですから、徐々に恋愛や将来などの込み入った相談もしたりするようになっていったんですけども、いつもしっかり応援してくれつつ、親身になって返事を返してくれてました。
そんな、新聞配達のついでに続いた手紙のやりとりですが、陽が昇るのが徐々に早くなってきた3月の末、1週間前くらいだったと思いますけど、新聞配達を辞める事を告げました。
その後も、いつも通りのやりとりだったんですけど、最終日に、いつものように手紙が置かれてまして、読んでみると、『ごめんなさい。」から始まる文章でして、不思議に思いながら読み進めると、その方には生まれてくるはずの弟さんがいたそうで、勝手に僕をその生まれてくるはずだった弟さんと重ねてた、みたいな事が書かれてました。
僕は次の日、そのマンションに行って『お姉さんへ』という言葉から始まる手紙を置いてきました。
なんでしょうね、僕は僕で、学費や生活費どころか当時は親に仕送りもしつつ、1人立ちしてる気になって、イキがってた半人前のクソガキだったのもあって、不安定な部分が多々ありましたから、新聞配達だけの関係である事が丁度良い距離感だったのだと思いますが、その方に相談しやすくて、どんどん甘えていったのだと思いますし、その方もたまたま、生まれてくるはずだった弟さんにとても思い入れがあって僕を重ねてた、という、お互いがお互いに歩み寄りやすい背景があって、良いやりとりができたんだな、と思うんですけど、多分、ご縁っていうのは、そういう一見何も繋がってはないけど知らないところで繋がっているから起こり得るものなんだと学びました。
そんな事がそうそうあるとは思いませんし、実際、このご縁も多分新聞配達員同士で、毎日会ってたから繋がっていただけで、なんとなく、この1年間の不思議な良い思い出くらいにしておく方が良い、くらいに思ってましたし、当時の僕は人の懐に入り過ぎるのがとても苦手だったのですが・・。
でも、その時の僕は、繋がっていけるように、というより、出来得る限りの事はしておこうと思って、その手紙の最後に自分の住所を書いておきました。
住所って!!ってなると思うんですけど、その時はまだ19歳で親の承諾を得るのが面倒くさいので、携帯は持ってなかったんですよね、僕。
結局は、その後、何の連絡もお互いにしてません、もしかしたら、手紙が来たのかもしれませんが、チャップリンばりに引っ越しをしてましたし、いちいち郵便局に申請も出してなかったので、届きようもありませんしね。
ただ、その方とは人生のほんの一瞬、隣を歩かせてもたっただけですけど、一番多感な時期に、文通なんて手段ではありますけど沢山の話をした事で、心の支えになってもらえて、そして、本来でしたらなかったかもしれない、瞬間瞬間の心の安定があった事で、上手くいったことや、見逃さず見えた事が沢山あっただろうと今なら思います。
あの方のお陰で人生における一期一会というものの持つ力の大きさを意識する事も出来ましたし、その後の人生でも人との出会いを大切する事や、人にこちらからさらけ出していく意識が芽生えたような、後々、そんな事を想えた出会いでした。
あ、でも、やっぱり一番インパクトがあったのは、朝、眠たい目をこすり、アパートの駐車場に停めてたカブに乗ろうと思ったら、そのカブがなかった時ですね。あの、よくアニメとかである、カブがあったであろうところが点線で点灯するやつね。一回、部屋に戻ってやり直したり、3分間ほど教科書通りの絶句棒立ちしたりするやつね。
もう小さな新聞配達店が朝からスペインの牛追い祭りみたいに大騒ぎになって大変だったので、新聞配達用のバイクを盗むのはやめましょう。というか、盗みはやめましょう。