「サマーフィルムにのって」の絶望と光
「この作品は永遠に会うことが出来ないかもしれない最愛の存在へのはなむけを映像化した作品なのだ。」
そう考えるとこの作品がもつあまりの切なさも説明がつく。なにしろハダシは黒澤にとっての三船に匹敵する最高の主演俳優であると同時に、最愛の人でもある凛太郎、そして「自身の初監督作品」の3つを同時に失ってしまうのだから。
なんと絶望に彩られたラストシークエンスなのだろう。ここまで過酷な設定はそうそうない。しかし、この壮絶なラストシークエンスに過度の悲壮感が漂わないのは、その後数々の傑作を残す巨匠となるハダシの覚悟と覚醒をはっきりと感じることが出来るからだ。それは映画の未来と置き換えても良いと思う。映画は続いていくんだ!映画は無くならないのだ。
凛太郎が未来からやってこなかったらハダシは映画を撮らなかったが、凛太郎が来てしまったから「武士の青春」は未来に残らなかった。けれど、凛太郎が来なければハダシは「誰かを愛おしく思う気持ち」に気づくことなく他者を拒絶したままだったであろう。そしてそれはつまり巨匠としてのハダシの未来を閉ざすものへとなったに違いない(本人にとってはどうでも良いことのようだが…)
このもどかしい堂々巡りからハダシが導いた答えが映画の未来を、運命を変えていくだろうし、他者を愛しく思う気持ちを自覚したその瞬間から時代劇オタクとして閉じていたハダシの世界は解放され、多くの人を映画を巻き込んでいくのだろう。そんな未来が力強く提示されるラストシークエンス。熱くて悲しくて揺るぎないものを目撃した時にだけ流れる特別な涙。そんな特別な涙があるのかどうかわからないけど、とにかくこれまでに味わったことのない感情が渦巻いて、私は嗚咽した。
三十郎にではなく、役人にしょっ引かれて磔になる室戸半兵衛。
市にではなくどさくさに三下に斬られる平手造酒。
そんな結末は誰も観たくないのだ。
最後にハダシを演じた伊藤万理華さん。僕は彼女の事を全く知らなかったものだからこの度の目撃はトラウマ級の衝撃で、演者の自我が微塵も感じられない自己を没入した演技は、見ているこちらが作劇を見てるのか、自分がその場で事件を目撃しているのか混乱するほど。
「ハダシは素の自分に近い」という伊藤万理華さんのインタビューを読み、見れるだけの彼女の映像作品を見たがこれは謙遜だろう。役によって表情や、仕草だけでなく声色まではっきり使い分けている。
だから、つまり、伊藤万理華はとんでもない奴なんです。