「もっと超越した所へ。」恋の無間輪廻からの解脱。
公開前の宣伝文句にも使われていた「クズ男」たちに翻弄される4人の女性の物語ですが、男連中はクズというより「男社会の落伍者」なのではないだろうか?と思った。男は集団の中で必ずしも成熟しない生き物だが、集団の中にいれば何だかんだ言っても忙しく働くものだし、貫禄なんかも出て来る。で、それを成熟だなどと勘違いできる能天気な生き物でもあると思う。
それに対して、劇中に登場する男4人は友達もいなさそうだし、言い訳ばかりだしおよそ成長や成熟とは程遠く「成熟から疎外された孤独」の中に生きている幼稚な落伍者たちの様でもあるから、現実逃避のために心理的防衛手段を標準装備しているだろうし、おそらく関心事はその手段のアップグレードしかない。男性4人の見せ場はその「心理的防衛手段」と「なりふり構わず自分が可愛い」愚かな男の情けなさの品評会だったなぁという感想。彼らには超越は無関係に思えた。
では、映画のタイトルにもあるように女性4人は何を「超越した/しようとした」のだろうか?
彼女たちの男性遍歴を紐解くにほとんど同じことを繰り返しているのではないだろうか?(2018年以前にも同じようなことがあったのではと想像する)でもって結局の所、同じことを繰り返してしまう、目撃してしまうのは「観測」してしまうからなのであり、要するに何も感じなければよいのだという、シンプルであっけらかんとした境地がラストあの展開なのかな?というのが正直なところ。
けれど時空を超えた演出や愚かな男どもを抱擁し容認する姿はどこか菩薩性を感じたし、ふと頭をよぎったのは次のフレーズだった。
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
(ぎゃーてーぎゃーてはらぎゃーて はらそうぎゃーて ぼーじそわか)
「行こう、行こう、彼岸に行こう、完全に彼岸に到達した者こそ、仏の悟りそのものである」
般若心経の有名な一節というか、歌で言えばエンディングで繰り返されるメインテーマのリフレインで、意味はズバリ「超越」だ。
強引に当てはめちゃうと、この映画は恋という輪廻世界から解脱して極楽浄土に至るというお話だったのかなと思った。恋すらも一切皆苦、諸行無常であると。ラストのあのなんでもありな万能感溢れる展開はなおさら極楽を思わせる。
役者さんの中では、演技巧者が揃う中で、未熟な部分も含めて伊藤万理華さんが、役者として1番凸凹してた。(めちゃくちゃ褒めてます)その役者としての凸凹が作り出す多層な陰影が美和の心情表現をオーバードライブさせていたように思います。(表面が凸凹ということは光が当たればそれは乱反射し、影は一層深く刻まれるということ)また、万理華さんの役者としての凸凹にオカモトレイジさんがうまく嵌っていて。これは他の女優さんとの組み合わせでは生まれなかった化学反応だろうなとも思いました。伊藤万理華さん本当に不思議な役者ですね(全力で褒めてます。)