「サマーフィルムにのって」そしてハダシは「映画」になった
「サマーフィルムにのって」 この作品を観て、ハダシ役の伊藤万理華の目が眩むような輝きを放つ存在感に衝撃を受けてからかれこれ2か月以上経つが、未だに高揚した感情が私の中で渦巻いている。
ブルーレイディスクも購入し万全の体制で繰り返し作品を視聴。視聴する時間が無い時は彼女の他の出演作品「お耳に合いましたら」や舞台配信 「もっとも大いなる愛へ」乃木坂46時代の個人PV作品(「はじまりか、」は 驚異的 だ。)を繰り返し鑑賞しては感嘆するという幸せな日々を堪能している。
しかしながら、他作品での彼女の才能の豊かさに驚きつつも情緒的に 「サマーフィルムにのって」の衝撃を越えることがないという現実を認識し、自分が極上の蟻地獄にハマっている喜びの自覚と同時に「いつまでこの感情の昂りが続くのだろうか...」という不安も抱くというアンビバレンツな状態に戸惑いを感じ 始めているのも事実だ。
劇中ハダシが自らの創造や信念、そして「映画」を未来へ継承するため凛太郎に切っ先を向けたように、映画を見ている私もハダシ監督(=松本監督)の鋭利な切っ先で心を、そして、ある種の先入観をぶった切られたのであろう。
「サマーフィルムにのって」との出会いは私にとってある種のトラウマ(もちろん最高の奴ね)となり私の心の深層に鮮やかに刻印されたのだ。または、深層に潜む抑圧されていた何かをサルベージ(救済)したのかもしれない。その正体は一体何なのか?考えてみた。
ラストシークエンス、風雲急を告げるハダシの「今この瞬間がこの映画のクライマックスです」という宣言で劇中劇としてクライマックスを迎えようとしていた 「武士の青春」と劇中で「武士の青春が」クライマックスを迎えようとしてた「サマーフィルムにのって」がタイムライン上で交差する。(交差したように見えると表現するのが適切かもしれないが。)
「武士の青春」が一見理不尽に幕を下ろし、忽然と「サマーフィルムにのって」のクライマックスが私たちの目前に隆起するというダイナミックな構造変容は本作の奥行きの深さを印象づける演出だったのだが、私が考えるには、あの場面においてもう一つ構造的に変容したものがあると思うのだ。
それは主人公ハダシだ。
あの瞬間、あの宣言によりハダシは「映画の権現、または映画という概念の口寄せ (イタコ)」へと変容を開始したとは言えないだろうか。
段階的にハダシは変容する。
第一段階、壇上での宣言の後、降壇したハダシへ駆け寄った花鈴が問うた「ハダシ何するの?」に対する回答「映画、撮るんだよ!」により私たちは「プロフェッショナルとしてのハダシ監督(ひいては映画監督)の覚醒→誕生」を目撃する。
続く第二段階、壇上での宣言により自らの創造の信念を貫徹する「本当の意味での映画監督へと覚醒」したハダシは「武士の青春=サマーフィルムにのって」を撮了すべく「本番!」の号令を発する。
だがダディボーイの 「このラストシーンは俺じゃない」との英断によって「映画を撮る側」だったハダシの立場は(お絹ちゃん役を演じはしたが)以降「撮られる側(被写体)」 へと変わる。
以降「サマーフィルムにのって」の登場人物であったハダシは「武士の青春」の世界へ入り込んでいるが、スクリーンのこちら側の私達は変わらず 「サマーフィルムにのって」を観ているというだまし絵のような構造に気がつけないと、映画の演出上は要素の一つでしかないはずの劇中劇にとらわれてしまい、結果「映画を棄てた」とか「観客置き去り」「潔くない創造者」と言うネガティブな感想を抱いてしまうのかもしれないが、それほどこの場面、そして構造の転換は鮮やかなのだ。(スタンリー・ キューブリック監督「2001年宇宙の旅」で類人猿が天空へ放り投げた骨が時空を 超え「宇宙船」へモンタージュされる場面に匹敵するほど鮮やかだ。)
乱暴な言い方をすれば、私達が「武士の青春」という映画を見ていた時間はないのだ。 私達ははじめから「サマーフィルムにのって」という映画を見てるのだ。
ダディーボーイに引導を渡されたハダシは、目の前に立ちはだかる刺客(=ハダシの心理的葛藤の具現化)を怒涛の逆手斬りでなぎ倒し、首尾よく自らの切っ先を凛太郎へ届け「告白」を完遂する。
「えっと、だから、つまり...凛太郎、好きだ よ」
俺も...好きです」
思春期の恋愛の達成(松本監督は恋愛かどうかはグレーと言及している)という本来ならば永遠すら感じさせる甘美な瞬間の獲得に成功はしたが、ハダシと凛太郎が甘美な永遠の中で過ごせる時間は限られている。時空を超えて離れ離れになるのが二人の運命なのだ。そのタイムリミットは迫っている。
「凛太郎、この映画さ文化祭終わったら捨てなきゃいけないんだって」
「でも、やっぱ、捨ててもこの映画はなくなんない」
目の前にいる未来から来た凜太郎に自分が本当に託したい事の意味を立ちはだかる試練(刺客、剣客の登場→決闘)を超えていくことで獲得したハダシの魂は最終段階「映画の権現、または映画という概念の口寄 せ (イタコ)」へと変容していく。
「あなたがみてくれた。みつめてくれた。あたしが時代劇に感動して、それをつなぐために映画を撮り始めたみたいに、この映画を見た凜太郎が、きっと未来につないでくれる。でしょ?」
全編を通しこのカットのみハダシはカメラ目線なのである。(ブルーハワイは武士喫茶のシーンなどでカメラ目線がある)カメラ目線とは「被写体が、カメラを見る視線。カメラを意識して見る目。(出典 小学館デジタル大辞泉)」であり、ハダシは映画を観ている私達に語りかけているとは言えないだろうか。
もちろんシーンの流れの中ではハダシは凜太郎と対峙しているので凜太郎へ向けられた視線と解釈するのが自然だろう。しかし「恋にも似た」心理的葛藤を昇華した二人は、この時点で「凛太郎=映画の未来を託せる新たなる希望の存在」「ハダシ=未来へ自らを繋ぐ任務を遂行する映画」という概念そのものに象徴化されている。概念化され複眼の視点を持ったハダシ=(概念としての映画的存在)はこの映画を観る私達にも自らの存在をかけて語りかけて来る。
「映画を未来へつないで欲しい!」
「映画のない未来を変えられるのはあなた達だ!」
「あたしが時代劇に感動して、それをつなぐために映画を撮り始めたみたいに、この映画を見た「あなた」が、きっと未来につないでくれる。でしょ?」と。
私たちはこの映画のラストカットで映画が時空を超えて、自らの概念、作法、歴史、秘技を未来の存在へ剣を交え伝達した事で発生した莫大なエネルギーの閃光を目撃する。それは青春映画と呼ぶにはあまりに眩しすぎる閃光だった。(おおよそ1.2ジゴワットはありそうな。)
サマーフィルムにのって、映画は未来へ放たれた。
映画を初めて観てからおよそ40年経つが、感覚的にも情緒的にも愛おしくて大切な存在だった映画に直接語りかけられたと思える体験は初めてだった。
そして、そう思える自分がいることを発見でき「サマーフィルムにのって」は私にとってかけがえのない作品となったのだ。
最後に、松本壮史監督、脚本の三浦直之両氏の言葉を紹介し駄文を畳ませてもらおう。
「映画ってさ、スクリーンを通して今と過去(今と未来)をつないでくれるんだって思う」