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「シン・仮面ライダー」本当に勿体無い映画だった。

「庵野秀明の監督作だから」「原作を知らない人には刺さらない」「演技が棒読みなのも演出」「チープなのはTV放送のオマージュ」「場面がつながらないのもオマージュ」などという声が作品を賞賛する方々から聞こえてくるが、これらの言葉には結果的に出来上がった作品そのものへの評価の根拠の薄さと、制作サイドの映画制作の過程における観客に甘えた姿勢を浮き彫りにさせたのではないだろうか。

原作があろうがなかろうが映画とは単体の作品でありそこに何らかの要素で補完しなければ成立しないのであれば、その作品は破綻をしているということだ。そして、そのような「何らかの補完」を観客に強いてはならない。観客にそんな義務はない。

我々は出来上がった作品を楽しみたいだけなのだから。

もし、この作品が「庵野秀明監督作」の名に甘んじることなく、独自の価値と深みを持つものとして評価されるならば、その評価の基盤はもっと堅固でなければならない。監督の名前だけではなく、物語の一貫性やキャラクターの魅力、映像の美しさなどがバランスよく賞賛に値する要素として示されるべきだと思うが、残念ながら称賛の声は「映像」「造形」に対するものに偏っており、その点において本作はバランスに欠けた作品であると言わざるを得ない。かくいう私も、映像・造形の完成度については特筆すべき点もあると考えている。

出来上がった作品のチグハグさに、演出サイドよりも製作サイドに対する疑問を呈する声も当然のようにあるが、それは製作過程における適切な監修やバランスの取り方が欠如していたのではという疑念なのだろう。もしそのような監修が存在していれば、作品に見受けられる脚本や設定の瑕疵を事前に修正し、観客が納得できるクオリティの高い作品に仕上げることができた可能性があるからだ。東映にはシナリオをチェックする部門は無いのだろうか?

映画制作においては説明すべき箇所を端的に、時には大胆に省略することも重要であるが、それが緻密なストーリーテリングや映像表現に結びついているべきである。説明を省くことでストーリーが混沌、説明不足となり視聴者が物語に没入することが難しくなるのは避けるべきだ。

また、ストーリー上の前提としてどうしても説明しなければならない箇所も当然あるだろうが、本作では駆け足に登場人物の「セリフ」として説明されるのみ。例えばストーリー上重要なキーワードであったはずの「プラーナ」ですら説明が足りてるとは到底思えない。

説明したくないという意図やこだわりを「映画」の中でいかに展開するか、説明しなければならない部分をいかにスマートに表現するか。(黒澤明「悪い奴ほど良く眠る」の冒頭部分やそれを発展させたフランシス・コッポラ「ゴッドファーザー」のように)それらは一般的に「演出」と呼ばれ、映画監督の重要な仕事のはずだ。

一風変わったアングルでショットを撮ることだけが映画監督の仕事ではない。

本来カットやショットは「誰の視点なのか」という映画文法のルールとセットのはずで、これを意識できていない「変わったアングル」「きっと斬新なんだなと納得するしかない構図」はノイズでしかない。

クモオーグの腕がスーツから出てくるカットをスーツの中から覗いたアングルや、コウモリオーグ戦後、車から降りるルリ子の靴の裏を捉えるショットなどは「一体誰目線でこれを撮ってるのか?」と混乱してしまった。(シン・ゴジラのラップトップ目線などなど、挙げればキリがないが世間ではそれを「庵野節」と呼んで持て囃しているわけだから、これは私の感性が古いのかもしれませんね)

他の監督が撮っていないアングルは「撮る必要のない」捨てたアングルという事だけで、発見でもないし斬新でもないと思うので、庵野秀明のこの点に妙なこだわりに関しては常に違和感を感じている。

映画の基本中の基本「誰の視点なのか」ここを整理できたら本作はもっと良くなったに違いないからだ。
とはいえ、原理主義に陥れば、究極的な映画とは主役の視線がメインとなり、主役が登場しない事となるかもしれないが。

とにかく映像的な鋭角さやボディスーツなどに見られる造形要素の精緻さと本来軸となるストーリーや設定、演技演出のバランスが悪く、6パック腹筋の8頭身なのに骨粗鬆症といった趣の珍妙な仕上がりとなっている。(そもそも仮面ライダーがカッコいいんだから造形面で劣化することはない)

また「一文字隼人」登場から仲間になるまでの急な展開や、設定の裏付け不足など、あちこちに散見される作品内での整合性の欠如は、映画制作の基本である演出設計や脚本のクオリティが低かったことを物語っている。観客は疑問符を持ちながら映画を観ることになり、物語に没頭することが難しいのだ。

この作品に限れば、賞賛とセットになっている「あまりにも多い前提」や、出来不出来に関係なく庵野秀明作品を無条件で受け入れる忍耐力のある者だけが享受できる喜びが本質なのだとすれば、相応の発表の場があったはずだ。それは商業映画とは呼べず「同人作品」なのだから。

前提を知らない者、庵野秀明の作品を是々非々で鑑賞している者にとっては今回の作品は「映画事故」に近い。

「シン・仮面ライダー」においては、映像的な造形要素が脚光を浴びつつも、ストーリーの骨組みやキャラクターの心情描写など、映画作りの中核を担う要素のバランスが取れていないと指摘せざるを得ない。このようなギャップは、映画監督としての庵野秀明の演出能力や作品への姿勢に対する疑念を呼び起こすものとなってしまった。

「エヴァシリーズ」「シンシリーズ」を含む庵野秀明の作品には、その独自性や深みが確かに存在する。しかし、それが必ずしも映画監督としての全ての要素をカバーするものではないことも示唆されている。このことは私自身にとって、映画制作における監督としてのスキルと、単なる名前の魅力の差について考える契機となった。

私は仮面ライダーが大好きな少年だった。1号からストロンガーまでの怪人を登場順に、どんな技を持っていてどのようにライダーに倒されたのかまで暗記していたほどだ。

エヴァンゲリオンもテレビ版、旧劇、新劇、全て見ている。シン・シリーズも全て見た。

私は、作品にはドラマが希薄で無味乾燥なのに、本人は泣いたり、失敗したり、スケジュールを守れなかったりするやたらと人間臭いクリエイター庵野秀明にシンパシーを感じているのだ。

しかし、だからこそ本作を「庵野節」や「庵野だから」「昭和の仮面ライダー世代には刺さる」などの言い訳じみた言葉で納得することは難しかったし、それはクリエイターを殺す言葉だとも思う。






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