バンドをやりたくて上京。そして性懲りも無く今も続けてる。1990年代編⑰(MOO-COW解散)
建築現場の産業廃棄物置場を見張る仕事ではおっさんに怒鳴られたりしていたが、その時やっていたMOO-COWというバンドは定期的にライブにも誘われCDも出してもらい、上京して組んだバンドの中では一番良いペースで活動できていた。
だが登り調子なのは短い間でバンド内にはなんとなく煮詰まった空気が流れだす。(煮詰まるのが早いだろ)
音楽的な嗜好のズレに加え、ギターのH君がメジャーデビュー予定?のバンドに掛け持ちで加入することになったりして、俺はその時にH君に対して「それなら辞めろ」とかなんとか言ったらしい。
H君への発言も覚えていなくて、後に本人から聞かされたことだった。
自分の中では「ちゃんと話した上での解散」という記憶だったけど実は違っていたようだ。
日々大酒を飲んではよく記憶を無くしていたので他のメンバーにも何か言ったかもしれない。(いや言っていたに違いない)
三人で続けるか、新しいメンバーを募集して活動を継続させようという選択肢もあったけど、俺は段々と初期パンクやガレージパンクに興味が行き初めていてREGISTRATORSやTEENGENERATEにハマっていってもっとロウでシンプルなバンドがやりたくなってきていた。※この方向で後にThe Weekenderを結成する。
解散してしばらくしてからトクさん(ロマン優光、プンクボイ)からはこんな言葉を聞いた。
「なんで解散しちゃったの?エモったんですか?ラウドったんですか?」
「だって、バンドの解散は大体エモるかラウドるかだから」
90年代シーンの特徴を見事に言い当てた言葉だと思う。
確かにバンド後期の曲にはらしくないちょっとエモっぽいものもあった。(未レコーディング)
トクさんって昔も今も鋭いなー。
MOO-COWの最後のライブはたしか鵠沼海岸での野外イベントだったと思う。
夏の海岸での野外ライブという最高のシチュエーションなのになんとなく「そろそろおしまいだな」という予感がしていた。
帰りの車の中で馬鹿話をしながらもどこか車内の空気が重かったのを覚えている。
実質3〜4年間位の活動期間だったけど音源も出せて単発ツアー(with CHANIWA、VIVISICK)だったけど神戸にライブしにも行けた。
だがそれにしても活動期間が短い。
一つのバンドをじっくり腰を据えてやるということがどうしてできなかったのか。
20年とか30年とか同じバンドで活動している人達を本当に尊敬する。
この頃の自分に会ったら「おまえいろいろ勘違いしてんじゃねーよ!」と言ってやりたいが、20代の頃ならではの情念をのせることができたバンドだったとは思う。
この文章を書くにあたって久々に音源を聴いた。
今はなき昔の20000Vの階段でジャケ撮影したことや、HCの名盤をいくつも録音していたその筋では有名なスタジオでレコーディングをしたものの、自分たちには納得いかなくて後にスタジオで知人(B.P.というバンドのハジメさんという方)に録り直してもらいマスターを提出したこと、コンビニのコピー機でステッカーを手差しコピーで作って詰まらせまくったこと(次に行ったら「手差しコピー禁止!!」の貼り紙が)etc…。
いろいろと思い出して少し鼻の奥がツーンとした。
※日本のインディーズ好きなアメリカ人の青年がYouTubeでMOO-COWの音源をあげてくれていたので貼っておきます。
https://youtu.be/bVZ-GFey-6M
※画像はBOOZ recordからリリースしてもらった単独作。発売して数ヶ月後に解散したからレーベルにも迷惑をかけてしまいました、、。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?