ゲット・ザ・ばちあたり・グローリー
高校生の頃、ラフィンノーズのコピーバンドをしていました。
パンクを知ったのは中学生の時に読んだ漫画から。
当時、少年サンデーに上條淳士先生が「TO-Y」という作品を連載しており、その中に出てきたパンクバンドのファッションに緑ジャージ坊主頭の中2の俺は興味を持ったのでした。
あとは本屋で立ち読みした音楽雑誌に載っていた国内外のバンド写真にも驚いた。
80年代当時は当然今のように配信やネットがあるわけでもなく、レコード自体の流通も悪く田舎では手に入らないものも多かったけれど、何故か雑誌は割とマニアックなものも店頭に並んでおり(DOLLやfools mateも平積みされていた)それらの記事を見てまずはルックスから影響を受けたのであった。(この辺の話はまた別に記したい)
話は戻るが、ラフィンノーズは俺が高校生の時にはメジャーデビューもしていたので田舎にもその衝撃は伝わってきており、同級生の友達にもファンになる人が出てきて、高校3年の春にしてようやくバンドを組むことができた。
全国的にバンドブームでもあり、田舎町でも高校生がギターケースを担いで通学しているのを見かけたりしたのはいまから考えると信じられない風景だった。
高校入学当初から音楽・バンドをやりたくて同じ学校の先輩と組もうとしたり(その人はメタル系で趣味が合わなかった)、一人で部屋で空き缶をぶっ叩き、ギターをカラオケアンプに繋いでそれをラジカセでピンポン録音して謎のノイズテープを作ったりしていたが(今それを聴いてみたいのだがどこにあるのかわからない)ようやくバンドが組めた。
本当はギターがやりたかったけれど、ベーシストがいなくてその辺は妥協してでの加入だったけれど、なによりもバンドができるのがうれしかった。
高校3年ともなると受験勉強もあるのでは?と思われるかもしれないが、全員が就職組だったのでバンドをやる時間は充分にある。
だが音楽スタジオというものは電車で1時間程移動したところの町にしかなくて、練習はドラムを手に入れたK君の家の居間でやることにした。
アンプはギターのA君が小さな練習用アンプを持っているだけで、ベースアンプは家庭用カラオケのスピーカーを使用。マイクはおそらくだれかの家から持ってきたけど(もちろんカラオケ用)当然マイクスタンドなどあるはずは無い。
ラフィンのポンさんのようにベースを弾きながらコーラスをしたいなぁ、、。
K君の家は昔からの建物で田舎の家にはよくある神棚や先祖代々の仏壇があった。
「あっ、それならここ(神棚)に引っ掛かればいいんじゃん?」
「おおー!」
誰もたいして疑問に思わなかった。
休みの日はK君の家にたまりながらかなりの時間を練習に費やしていたので、それなりに演奏もまとまってきた俺たち。
神棚からぶら下がったマイクも熱気を帯びてゆらゆらと揺れている。
ボーカルT君も絶好調だ。
ラフィンノーズのある代表曲をノリノリで練習中のその時、、。
「ゲッ!ゲッ!ゲッザ・グロー、、あっ!」
その瞬間、マイクの重みに耐え切れず崩れ落ちる神棚。
K君のお父さんはK君曰く「怒るとめちゃくちゃ怖い」とのことだった。
さすがに気まずい空気が流れたが「神棚をなんとなく直して」その後もすぐに練習は再開された。
その晩、K君がとんな怒られ方をしたのかは知らない。
だけど後日、離れた町でライブをやることになった時にK君のお父さんは黙ってドラムセットやアンプを車に積み込み運んでくれたのだった。
こんな傍迷惑な俺たちのために。
迷惑かけてありがとう!(これは「たこ八郎」さんの名言だ)
神棚の一件を抜きにしても、いくら田舎とは言え相当ご近所迷惑だったとは思う。
K君の家の先祖代々の神様からも特に罰は受けなかった。(なんて寛容な神様だ)
自分があの時のK君のお父さんの歳に近づいた今、「馬鹿な若者たち」にあれだけ寛容でいられているかかどうかは疑問だ。
「追記」バスドラ(ドラムセットの一番大きな低音の部分)をミュートするために中に毛布を敷いていたのだけれど、その中でいつもK君の家の猫が寝ていた。
練習前にバスドラのキックを一発軽く踏んで、中から猫を追い出すのがお約束だった。