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新たな人生は誰かに決められるものではない。

最近、なにか頭の中でとりとめもないことを考えていると、「そうだ、note、書こう」ってなる。

ひとりごとをつらつら書いているようなものだから、読んでくれる人にとっては読みにくかったり、「その話またですかい」と思うような内容だったりすることも多いと思う。
どうか許してたもうれ。
自分の中に留めておくと、ずっとそれがぐるぐるしてしまうもんで。


一昨日、小林麻央さんの命日だったそうだ。
時折、麻央さんのブログを読み返させてもらうことがあるけど、本当に強く、優しく、チャーミングな方だったんだな…と思う。
身近にいたわけではないけど、どうしてこんな素敵な人が命を落とさなければならなかったのだろう。
病は、がんは、何と残酷なものなのだろう。
あらためて、ご冥福をお祈りします。


麻央さんは、言うまでもなく市川海老蔵さんの奥さんだ。
海老蔵さんは、麻央さんを亡くしてから、きっと悲しみをずっと心の奥に閉じ込めて、生きている。
そんな海老蔵さんの動向が、ネットでしばしば取り上げられているのを目にする。

麻央さんと住んでいた家を壊すのか…とか
気になる再婚の行方は…とか。


正直言って下世話だな、と思う。
いいじゃん、どうしたって。


誰に言われるでもなく、本人は、どのような選択をしたとしても、そのことに戸惑い、悩み、罪悪感に苛まれているはずだ。

自分語りみたいになって申し訳ないけど、前の彼を亡くしてから、わたしもずっとそうだった。

嫌いで別れたわけではない。だからずっと引きずった。
このままずっとひとりでいい。そう思った。
「亡くした人をずっと思っているなんて素敵ね」とまわりに思われたい気持ちも少しあったかもしれないけど、それ以上に、もう誰も失いたくなかった。
こんな、文字どおり身も心も引き裂かれるような思いは、二度としたくなかった。

だけど、無情にも月日は流れて、かさぶたの表面が剥がれたり、薄い膜を張ったり、また剥がれたり…繰り返すうちに、少しずーーーつ元気になっていく。
そうすると、恋をする気持ちも生まれてくる。
誰かと新しい人生を始めてみてもいいかもしれない…かもしれない…と思うようになった。
そう思える人がずっとそばにいて見守ってくれていたからかもしれないけど。
そうして、いまの旦那さん(彼とも親しくしていた)とつきあうことになったのは、悲しい別れから5年後のこと。


悲しい別れの後、人生の転換期は遅かれ早かれやってくる。
新たなパートナーができて新たな道を歩むことになったとしても、あるいは、もしひとりでいることを選んだとしても、好きなことを言う人は言う。
たとえば、5年で新たなパートナーができたわたしのことも、「5年でようやく前を向くことができたんだね」と肯定的に思った人もいれば、「まだ5年しか経っていないのに、思いってそんなもんだったんだね」って思った人もいたかもしれない。

言いたい人には言わせておけばいいさと思うけど、心のどこかはやっぱり傷つく。
そして、「わたしは、幸せになっていいのだろうか」という罪悪感が、うっすらと、だけどずっとまとわりつく。
だからなのだろうか、時々、彼が生き返って「どうしよう…結婚してるっていつ言おう…」と思ってあたふたする夢を見る(お気楽か。笑)


「生きていく者の時間は、人生は、続いていくんだよ」
そう言われるのが、昔は嫌だった。
でも、冷たく思われるかもしれないけど、それは現実だ。

その過程で、思い出の“外側”を違ったかたちにすることは、人様にどうこう言われることじゃない。
違う誰かと、あるいはずっとひとりでいることを選んだとしても、自分の“内側”にはずっと残り続けるのだから。


…ってか、海老蔵さんはまだ再婚の話とか、いっこもしてないけどね😅
ちょっと勝手にえびぞーさんに親近感を持ってしまいました🙏💦

でも、もし今後そういう話が出たとしても、それはそれでいいじゃん、おめでたいじゃんって話!

新たな人生は、誰かに決められるものではないんだし。


コロナ禍が落ち着いて、いろんなところに行ける状況が整ったら、旦那さんと一緒に、彼のお墓参りに行きたいなと思っている。
自分たちだけでひょいっと行動できる距離じゃないから、ちょっといろいろ覚悟と準備が必要だけど。
なんとなくだけど、それがひとつのけじめのような気がしている。


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