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さいこーの日

なんか亀田史郎の回し者みたいなタイトルだけど、無関係です笑
亀田史郎は【3150】か。


3月15日は、わたしと旦那さんが長年過ごした病院(のような施設のようなところ)から退院してきた日。
今日で、まる4年が経った。

その場所は、わたしが約34年、旦那さんが約27年過ごした場所。
良くも悪くも、故郷のようなところだ。
自宅外泊からその場所に戻るときに
「ただいまー!」
と言ってしまうくらい、そこはホームだった。不本意だけど。


くわしく書くのを忘れていたけど、わたしたち夫婦は
脊髄性筋萎縮症(spinal muscular atrophy:SMA)
という疾患を持っていて、重度の身体障害があるため、【重度訪問介護】という制度を利用し、ヘルパーさんの力を借りて日常生活を送っている。
いまは旦那さんの実家で、両親と2世帯同居している。

SMAにはタイプが1型〜4型くらいまであり、数字が小さい方が早期発症かつ重度である。

わたしは2型寄りの3型で、電動車いすに乗っている。
上肢は少し動くので、旦那さんの食事とか水分補給はわたしが担っている。
ごはんを旦那さんの口に運びながら
「わぁ、わたしいまめっちゃ奥さんぽい♪」
などとおピンクなことを思うくらい平和な頭をしている。

旦那さんは1型寄りの2型で、座位が取れないのでストレッチャーのような形の電動車いすに乗っている。
少しの力で動かせるスイッチを使って操作するのだけど、座って操作するわたしより俄然操作がうまい。

また、体が動かないぶん、頭が切れて弁が立つ。
味方にいると心強いことこの上ないけど、敵に回したら厄介で怖いタイプの人だ。くわばらくわばら。
某社会保険労務士事務所で、いまをときめくテレワーカーをしている。
世の中でこんなにテレワークテレワーク言われるだいぶ前からテレワーカーだったんだよ。ふふ。


そんな、頭が切れて弁が立つ旦那さんが舵を取り、わたしたちの退院計画は数年かけて進んだ。
焦って進めてもいいことはひとつもない。
少なくとも、わたしたちにとって急ぐことはむしろデメリットしかないと、これまでの前例で学んでいた。

まず、退院の前の年の早い段階で、主治医(女医)にざっくりと希望を伝えた。
その先生は、その日の気分がわかりやすく顔の角度に出るので、気分が良さそうな角度(しっかり前を向いている)のときを狙って声をかける。
そのときは、ざっくり中のざっくり話だったので、

「詳しく決まったらまた教えてくださいね」

という感じで終わり、最終的な話し合いの日取りは、主治医と連携が強いPT(理学療法士)さんに調整してもらうことにした。

「主治医先生の顔の角度がいいときにお願いします!」

ということも追加でお願いした。


そこから、年に数回の自宅帰省の機会を使って札幌に通い、ツテを辿ってヘルパーさん探しを始めた。
いつ退院して札幌に来るかわからないような人のために人員確保はできないよーとやんわり言われたけど、そこをなんとか!と手をすりすりしながら(実際はしてないけど笑)、話し合いを進めた。

結局、最初から話し合いに参加してくれていた事業所さんは我が家とご縁がなく、話し合いを進める中で相談員さん経由で手を挙げてくれたA事業所と、途中から話し合いに参加してくれたB事業所と、わたしが昔から知り合いだった人が運営するC事業所の3箇所にお世話になることになった。
その3箇所の事業所さんは、4年経ったいまでもお世話になっている。


さて、ヘルパーさんもだいたい固まったはいいが、肝心の【主治医との最終的な話し合い】の見通しが立たない。

PTさんには

「ちょっと待ってなー。いま主治医先生機嫌よくないのよ」
「いま別件で心ここにあらずなんだわー」

と釈明され、はぁ…しゃーないっすね…と言うしかなかった。
けれど、正直わたしは心中穏やかではなかった。
焦って進めてもいいことない と学んでいるはずなのに、さすがに焦ってきていた。
リハビリ帰りに売店で買ったマウントレーニアのカフェラッテをずびずび啜りながら、ジト目で旦那さん(そのときはまだ彼氏)に

「ねぇまだなのかな…PT忘れてんじゃない??」

などとぐちぐち言っていた。
船頭さんに文句を言う客みたいなものだ。
わたしだったら、「黙れ素人が!」と言ってしまうであろうところだが、旦那さんは何も言わずにどっしり構えていた。
すごいわ…適わんわ…


そのどっしり姿勢が功を奏し、退院の4ヶ月くらい前に主治医との最終的な話し合いができた。
どっしり待っている間に、旦那さんはスムーズに話を進める算段をばっちり整えていて、話し合いはものの10分くらいで平和に終わった。

このスムーズさには、旦那さんの母が旦那さんのケアをよく熟知していることも大きく影響したと思う。
風邪をひくと痰が絡み、そこから肺炎や呼吸不全の増悪に繋がりかねないSMAという疾患。
旦那さんは、幼少期にそれらで何度も生死の境を彷徨う経験をしていて、その経験を母とともに乗り越えてきたというバックグラウンドがある。
そこに、主治医は大きな信頼をおいていて、

「お母さんがいれば大丈夫ですね」

と言っていた。
将来的なことを考えればいろいろ思いはあるけど、お母さんがいれば大丈夫なことはいまのところ本当のことなので、ふたりでとびきり良いお返事をした。


そうして退院を迎えたのが、4年前の3月15日。
あっという間に、今日まで来た。

最初の年は、日曜日に入ることができるヘルパーさんがいなくて、当初1ヶ月くらいの滞在予定だったわたしの母が、半年も我が家にいることになってしまった。

母は普段、祖母と伯父(母の兄)と3人で暮らしている。
いまは100歳になり、要介護5になっている祖母だが、その頃は自分のことはそれなりに自分でできていた。
伯父は、函館近郊の町でそれなりにお客さんが来てくれるラーメン屋を営んでいて、母もそこを手伝っているのだが、わたしが母を半年誘拐(笑)したせいで、ラーメン屋も3ヶ月近く休む羽目になってしまった。
伯父は、もともと唐突にお店を休んだり、スキーで木に激突して鎖骨を折って長期休業したりすることがあったので、このときも

「大将どうした病気なのか」
「もう歳だから無理しないでください」
「また怪我でもしたのか」

などと、Twitter界隈で常連さんたちをざわざわさせていた。
店先に置いてある、休業を知らせる看板(手書きダンボール製)に寄せ書きがたくさんされているのも、Twitterで知った。
姪っ子のせいですごめんなさい。
いつも食べに来てくれてありがとうございます。

そういう数々の犠牲と、たくさんの人の支えがあって、いまのわたしの暮らしは成り立っているのだ
ということを、あらためて振り返り感謝する今日という日。


昨年か一昨年か忘れてしまったけど、Facebookに退院記念日投稿をしたときに、友達がコメントで

「315は、さいこーの日だね!!」

と書いてくれて、ほんとだ!!と思った。


さいこーの日に退院してきたわたしたち。
これからもずっと、さいこーな毎日を過ごしていきたい。

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