大学時代半年間引きこもりになったおはなし。引きこもり前後で世界はどう変わったのか?②
※この記事は2018/1/29に執筆した、前ブログ記事からの引用です。
前回の記事では引きこもりを経験して「わたしの中の世界」はどう変わったのか?を書きました。
※まだ前編を読んでいない方はこちらからどうぞ。
今回は引きこもりを経て、「わたし以外の世界」がどう変わったのか。
そして、引きこもりのその後をお伝えします!
果たして、大学に復帰するか否か
引きこもっていた時期は、大学3年生の前期。半年間まるまる休んでしまっていました。
家を出られる状況でなかった私は、
「戻っても、居場所があるかわからないし、退学しよう。今は大学のことなんて考えられない。」と思っていました。
だけど、両親は「まだわからないから、籍は置いておけ。」
と、籍だけは置いておりました。(親は私の持ち味である「しぶとさ」を発揮して復活することを予期して、言ってくれていたのだと思う)
そして、ようやく外出ができるようになった8月、もうすぐ大学3年生の後期が始まるところでした。
「大学の友達に会いたいなぁ。だけど、半年間雲隠れしていた私を受け入れてくれるのかなぁ。」
と、不安と葛藤していました。
突然いなくなった人がふと現れたらどう思われるのか。
9月に“成績配布日”があったので、恐るおそる行ってみることにしました。
(大学に行けてないから、成績なんてもちろん0点だろうけど)
大学に久しぶりに足を踏み入れる
いよいよ“成績配布日”、そろ〜っと忍び足で大学に足を踏み入れました。
学部と学年ごとに配布教室と時間が分かれているので、教室に行くと学部生だらけだった。
知っている子を見つけたので、「久しぶり・・・」と声をかけてみました。
すると「久しぶり!!!どうしてたの〜?」とやはり驚かれました。
この半年間の出来事を話すと
「大変だったね。ちゃんとこれるようになって良かったね!おかえり!!」と、笑顔で受け入れてくれました。
そのあとも、たくさんの友達にあったけど、みんな
「おかえり〜!また遊びに行こ!!」
「飲みに行こうよ!!」
「授業一緒のやつとろうよ!」
など、優しく受け入れてくれました。
私は「半年間姿を消していなくなっていた人間」だ。
そんな私に対して、学部のみんなは前と「変わらず」接してくれたのだ。
この時に受け入れてくれた友達とは、死後まで友達で居れると思う。いやもう、全員結婚しようぜ←
心優しき友よ、ありがとう!!!!!!
「60点」
もらった成績表をみて見ると、当然授業に出てないしテストも受けていないので「0点」の文字が並ぶ。
大学の単位は、60点を下回ると「単位を落とした」ということになる。
そんな中、一つだけ点数が付いていた教科があった。
「演習Ⅰ:60点」そう、ゼミである。
この数字をみた瞬間、私はゼミの先生の研究室にダッシュした。
「演習Ⅰ」を落とすと、次の学期の「演習Ⅱ」に進めないのだ。ゼミを辞めるということになる。
だが、私は半年間消えたも同然だったというのに、ゼミの先生は「ゼミ生」として繋ぎとめてくれたのだ。
研究室を訪れると、
「君はいつか復帰すると思って、待ってたよ。這い上がったあなたは、強い。これからも頑張れ!」
と言っていただき、その場で私の涙腺は崩壊しました。
この後、勉強面での遅れをとっていた私は、皆に追いつくのに必死でガムシャラでしたが、4年生の卒論までゼミをやりきりました。
4年生になっても就活と並行して大学に通学し、落とした単位分も無事取り切り、4年間で無事卒業できました。
卒業の際の送る言葉でも「あの時戻ってきてくれて、よかった」と言っていただき、またまた涙腺崩壊しました。
厳しくてブラックなゼミだったけど、この先生に付いていってよかったです。
引きこもり後の「周りの世界」は思ったより優しくて、変わらず受け入れてくれて、愛が溢れていました。
何で理解してくれないのだろう
だけど、復帰を受け入れて頂けなかった人も少なからずいました。
私は、大学に復帰するにあたって、引きこもり前に活動していた
「オープンキャンパスの運営団体」に戻ってオープンキャンパスに参加したいと思いました。
1・2年生時のオープンキャンパスのイベント前には夜遅くまで精力的に活動しており、一つの「居場所」でもあったから。
副代表に連絡して見ると「それは難しい」と言われました。
同学年のメンバーを集め、とりあえず話し合いをすることになりました。
話し合いの場では、私の話など一切聞き耳を持ってもらえず、
論点は「いなくなった私が活動再開するの許していいものか」ということ一点張りでした。
公開処刑とはこのことを言うのだと思った。
「あなたが半年間いなくなっていた間、わたしはどれだけ活動を頑張ってきたと思うの?」
と、皆は私が居なかった半年間、自分がいかに活動をがんばってきたのかを熱弁して、私の非を咎めてきた。
この時「私に戻ってきてほしい」という人もいたが、
追い詰められていた私にとって周りはみんな「敵」にしか見えなかった。
人生で初めて「集団リンチ」を受けた気分だった。
傍から見ると私は「半年間、音信不通で急に戻ってきた奴」なのだから、受け入れ難いのも無理もない。
散々追い詰められ、私は涙でしゃべることができなくなり、これ以上想いを伝えることも難しくなってしまった。
少しでも希望を持っていたことが間違いだった。
過去形の威力
私が喋る余裕もなくなってしまったので、その場はお開きに。
帰宅後、改めて副代表にラインで改めて参加の意思を聞かれた。
私は折れずに「参加したい」という気持ちを突き通した。
事前に「参加の是非は3年生とイカちゃんの意思を尊重して決める」と言われていたが
副代表のLINEの言葉の節々からはもはや私の意思関係なく「参加しないでほしい」という気持ちが見え隠れする。
(直接的に「参加するな」と言わないのは、自分が悪者になりたくないからだろうか)
これ以上、責められるのは、心が持たない。もう、諦めよう。
私は家で母に泣きつきながら、震える手でLINEの文字を打った。
すると、あっさり受け入れられ
(実際に当時送ったLINE)
との、言葉を最後にやりとりは終わった。
「仲間でした」
この言葉がずっしりと、心にのしかかった。
「仲間です」と「仲間でした」
一文字しか変わらないが、「過去形」になっている。
私はもう「仲間ではない」のだ。
こちらの「世界」では私は受け入れられず、見捨てられてしまった。
自分でも「離れていく人がいるのでは」という恐れなあることはわかってたのではないのか。
だが、いざ離れて行ってしまうと、辛いものだった。
この半年間で仲間ではない関係になってしまったのだ。
苦しみなんて、本人以外わからないのだから「理解して受け入れてもらおう」なんてことに無茶があったのだ。
私はこんなんじゃ、負けない
切られたことが辛くて悔しくて、数日は人間不審に陥りました。
今でもこの集団リンチ事件は、人生でトップスリーに入るぐらい悔しい出来事としてランクインします。。。
だけど、意外にもメンタルはけろっと復活しました。
「私は負けない」
だって私は、地獄の沼の底を舐めた人間なのだ。
ドン底の沼から上がってきた人間のしぶとさを舐めないで欲しい。
世界の風当たりが厳しいのなら、開き直ってやる。
「世界」は甘くない。そして、変わってしまうものだ。
えげつない苦難を乗り越えて戻ってきたとしても、風当たりは厳しいものだ。
その風当たりに立ち向かうために、私が地獄から持ち帰ってきた苦難の突破方法、それは「開き直る」ことだ。
「自分のダメなところは、開き直って愛してあげよう」
「失敗したら、開き直ってネタに転換してあげよう」
「仕事やめたけど、開き直ろう。まぁ、死ぬわけじゃないし」
そして、悔しさは燃料にして、燃やしてしまおう。
「あーはいはい、ディスり?嫌がらせ?パワハラ?燃料投下あざーす!イカのレギュラーはただいま満タンになりましたんで、これからもっと頑張っちゃいまーす!あっもちろん貴方を見返すためとかじゃないですよ〜。自分が成長するためですから!」
ぐらいの気持ちで開き直れたら、勝ちじゃないですか?
地獄から這い上がってきて、そう悟りました。
この方法、なかなかできるものではないですが、心持ちがふっと楽になります。おすすめです。
「開き直り教」を布教したいぐらいです。
※イメージ図
まぁ、半分冗談で、半分本気です。
******
2020/07/24 追記
今こうやって、しょぼいながらも生きながらえているのは
苦しい中、辛い中支えてくれた家族や、こんな私を受け入れてくれた友達のおかげです。一人ぼっちじゃなくて本当に良かった。
正直、未だにこの頃のことを思い出すだけで脳がヴッとなりますが、この経験があったからより人に優しくなれた気がします。
「苦労しているから」というだけで他の人の痛みまでわかるとは限りませんが、苦労しないとわからないことも当然ありました。
せめて周りにいる人たちには愛を持って、優しく接していきたいなと思えました。
この経験が無駄じゃなかったってことを、今後の人生を持って証明していきたい。
そこは妥協したくない。もちろんやりすぎはよくないから、自分の身体と相談しながらね!
少しでもあなたの心に響いたら嬉しいです🌼