UNISON SQUARE GARDEN『Patrick Vegee』を語りたい
語りたいアルバム、UNISON SQUARE GARDENの『Patrick Vegee』を語ってみました。各曲ごとに歌詞を追っていきながら感想、考察をしていく構成になります。曲と少し離れた部分については番外編で語っています。筆者は音楽知識に乏しいため歌詞の話が多くなっていますのでご注意ください。では二万五千字を超える語りをご覧いただければと思います。
まえがき
『Patrick Vegee』の前作『MODE MOOD MODE』 は発表済の楽曲を4曲かかえながらアルバムの浪漫を壊さず、その上でファンの意表を突く展開もある傑作だった。歌詞を読み解けば、差し伸ばされた手を噛みちぎるM1から手を握ってもいいよと投げかけるM12まで綺麗なストーリーを描く。一ファンとして間違いなく最高傑作だと思ったし、リリース後のアルバムツアーの充実ぶりも含めある種の到達点を迎えてしまったように感じていた。
さて、今作『Patrick Vegee』 は大傑作アルバムの次の作品であり、バンドの活動全体からすると、15周年でありとあらゆる企画を行った後にリリースされた作品でもある。そんな難しい時期にリリースされたアルバムを自分勝手に解釈していきたいと思う。
UNISON SQUARE GARDENは15周年のお祝いの最中でも、各種媒体で散々「15周年のお祝いとは違い16周年は通常営業になる」と言っていた。この前情報からも、『Patrick Vegee』は『MODE MOOD MODE』で起こした揺さぶりに対する揺り戻しの作品になることが予想できたのではないだろうか。15周年のお祝いから通常営業へと戻っていく揺り戻し、『MODE MOOD MODE』 のポップさからロックなアルバムへ舵を切る揺り戻し。このような揺り戻しがあるのではないかと予想したファンも少なくはないだろう。
M1 「Hatch I need」
『Patrick Vegee』の1曲目「Hatch I need」はそんな周りの声を逆手に取り、あらためてUNISON SQUARE GARDENのスタンスをはっきりとさせる一曲だ。
<鬼門またがりてAと為す 綽綽なる面をしてBと為す>はAとBというフレーズとエイトビートという音楽用語をかけていく始まり。引用した冒頭部分だけでなく、曲中でもさまざまなAとBの二項対立が登場してくる。
筆者は「Hatch I need」が、AとBという二項対立に<橋を架け>てポップ(A =『MODE MOOD MODE』)からロック(B =『Patrick Vegee』)への揺り戻しを表明している楽曲だと考えている。1曲目で揺り戻しをおこなうことを表明していることから、ファンの予想通り『Patrick Vegee』というアルバムが『MODE MOOD MODE』に対する揺り戻しになっていることがわかるだろう。
しかし「Hatch I need」のサビ部分では『Patrick Vegee』が予想通りの揺り戻しに留まる作品ではないことも示唆している。<切り取り方にも難があるだろう 散々ぱら端折って行儀よく侮ってんじゃねえよ>は、アーティストをポップやロックといった言葉で切り取ることが、アーティストを端折って侮っていることだという主張である。
『Patrick Vegee』をポップからロックへの揺り戻しだと単純に切り取るだけではこのアルバムに対する侮りになるだろう。リスナーの簡単な解釈を拒絶する姿勢が読み取れる。
「Hatch I need」という一曲を読み解くことで『Patrick Vegee』というアルバム全体がどのようなテーマを持っているのかを少しながら推測することができた。『Patrick Vegee』の中では曲単独が投げかけるメッセージとアルバム全体が放つメッセージが密接に絡み合っている。
また、曲とアルバムのつながりだけでなく、今までバンドが歩んできたストーリーとのつながりが感じられるのも『Patrick Vegee』の醍醐味だ。
「Hatch I need」というタイトルは、曲中で「I need hatch」と歌っているからつけられたと考えることもできるが、15周年で盛大にお祝いした後に自分たちだけの隠れ場所を探していることを表していると考えることもできる。
簡単な言葉で切り取れないアルバムという形態の複雑さは『Patrick Vegee』のキャッチコピー「なんかグチャッとしてんだよな」に象徴されるだろう。そのキャッチコピーから『Patrick Vegee』が意図的にグチャッとさせたままの作品ではないかと推測することができる。
しかし、複雑さそのものを作品としてぶつけていくことは現代のトレンドとは言えないだろう。語られやすさこそが現代のヒットの源泉である以上(語られやすさとは言い換えればバズりやすさだ)、複雑さという語られにくさはトレンドの真ん中にいくには不要な要素だ。アルバムにこだわり続けるUNISON SQUARE GARDENは世間の真ん中をいくバンドでは決してない。
『Patrick Vegee』の帯文は「食べられないなら、残しなよ」。ただでさえ複雑なアルバムに、食べにくさ = 語られにくさ を前面に押し出すキャッチコピーをつけるのはUNISON SQUARE GARDENらしさが詰まっている。Vegeeがベジタブルの俗称であることを踏まえると、一目でわかりやすく美味しそうなお肉ではなく、美味しさがわかりにくい野菜としてアルバムを提示していることがわかるだろう。見た目からはわかりづらい野菜のおいしさとはどのようなものだろうか。
その魅力を明らかにするために本稿では『Patrick Vegee』を3つのテーマから語っていきたい。
1.『MODE MOOD MODE』 からの揺り戻し
2.簡単な解釈の拒絶
3.「なんかグチャッとしてる」複雑さ
あくまでも筆者が感じたポイントに過ぎないが、より『Patrick Vegee』を楽しめるきっかけになれば幸いである。
斎藤宏介最高ポイント
<常識はあると思っています>
M2 「マーメイドスキャンダラス」
さて、「Hatch I need」から続く2曲目は「マーメイドスキャンダラス」。M2にマイナーキーのロックな曲を置くのは4thアルバム『CIDER ROAD』の「ため息shooting the MOON」、5thアルバム『Catcher in the Spy』の「シューゲイザースピーカー」でもあったパターンだが、「マーメイドスキャンダラス」は新しい面白さが多くあるスリリングな楽曲となっている。2番Aメロの異常な音数のドラムやギターソロに入りそうで入らない間奏の気持ちよさ(気持ち悪さ?)はその一つだ。
独特の発想を元にした歌詞もUNISON SQUARE GARDENの魅力である。<いつか紡いだ願いごと 今ならばってifのこと>は英語と日本語が混じり、文字でも口語でも成立しないフレーズだがメロディーに乗ると不思議な魅力がある。日常生活では使えない独特なフレーズがメロディに乗ることで歌詞として成立しているのだ。(過去作品では「Invisible Sensation」で<踏み入れた>を<ふみはいれた>と読ませている 田淵智也にしか書けない独特な歌詞だろう)
常識破りの言葉遣いは楽曲のタイトルにもあらわれる。「マーメイドスキャンダラス」というタイトルはあえて間違った言葉で作られたタイトルだろう。(文法としてはスキャンダラス→マーメイドとなるのが正しい)マーメイド"スキャンダル"でもサビのメロディに嵌っていると思うのだが、口に出したくなるタイトルはマーメイド“スキャンダラス”のほうだ。
既存曲のタイトルの中で筆者が特に気に入っているのは「リニアブルーを聴きながら」。感動的なフレーズの数々に、辞書に存在しないリニアブルーという言葉が不思議とピッタリな楽曲である。
歌詞の細かい部分を深読みすることは、アルバム全体を解釈する上でのヒントになるだろう。1番Aメロの<興味本位も物見遊山も化かされちゃって帰れない>は一聴で読み解こうとすると化かされて帰れなくなるぞとリスナーを脅かし(物見遊山は「ものみゆさん」が正しい読みだが、「ものみゆうざん」と歌っている。「ものみゆうざん」が正しい読みだと思っていたので一聴じゃ気付けず)、<絶対とかないよ そんな綺麗事聞けるならここまで生きれてないんだよな>は唯一の絶対的な正解を選ぶのではなく、白黒はっきりさせない生き方こそが、我々のやり方なんだとアルバムのテーマを表明している。
曲単体としてのストーリーも美しく、<真実は泡になる 虚しすぎる>を印象的なサビ部分に持ってくることで人魚姫の物語を思い出させる。そのスリリングな演奏から『Patrick Vegee』の中でもっともライブで聴くのが楽しみな楽曲だ。「マーメイドスキャンダラス」がセットリストの天才、田淵智也の手にかかった時どのような輝きを放つのか楽しみである。
斎藤宏介最高ポイント
<泡になる>の"る"
番外編 8枚目の話
UNISON SQUARE GARDENのファンにとってアルバムリリース時の楽しみの一つは、曲中のどこかに隠された「◯枚目」コールである。(4thではM2、5thではM1、6thではM2、7thではM1に「◯枚目コール」がある)
『Patrick Vegee』ではM1の「Hatch」とM2「マーメイド」のつなぎで「はちまいめ」を表現してファンを驚かせた。今までのアルバムでも曲の並びや曲間にこだわってきていたが、『Patrick Vegee』では◯枚目コールから、曲と曲のつながりをいままでとは別の視点から進化させようとしていることがわかる。
後から考えてみると、曲のつなぎで「はちまいめ」を入れることは予想しようと思えば予想することができた。『MODE MOOD MODE』ではリリース前に既存曲以外の曲名、曲順をいっさい明かさなかったが、今作では曲名の一部を?にして試聴動画をアップロードする企画(???スキャンダラス等)をおこなっていた。
歌詞は公開されていたため、M1とM2はそれぞれ予想段階で曲名を当てることができ、リリース前のインタビューと照らし合わせれば曲順を予想することもできた。曲間のつなぎで「◯枚目」を表現するという仕掛けに気づくための情報は出揃っていたのである。
UNISON SQUARE GARDENは『Patrick Vegee 』曲名当て企画のようなファンをワクワクさせる企画が多い。田淵智也のプロデュース力が大いに発揮される部分だろう。その能力が評価されてか、最近では声優ユニットのプロデューサーも務めている。バンドマンにしては異質な田淵智也のプロデュース力によるオリジナリティ溢れる企画の数々はUNISON SQUARE GARDENがここまでの人気を獲得し続けている一因だろう。
M3「スロウカーヴは打てない(that made me crazy)」
2011年に解散してしまったバンドthrowcurveにインスパイアされた「スロウカーヴは打てない(that made me crazy)」。特装版のライナーノーツによるとthrowcurveの「表現は自由」と「連れてって」の2曲をベースにしたとのことだったが、それらの音源を聞いてみるとメロディーや歌詞をそのまま使用している部分がたくさんあり笑ってしまった。
そのまま既存曲をカバーするのではなく、既存バンドの既存曲を元にしつつユニゾンのオリジナル曲に昇華するやり方は「RUNNERS HIGH REPRISE」と同様だが、「スロウカーブは打てない(that made me crazy)」はカップリングではなくアルバムの3曲目という、いままではシングル曲が担うこともあった大事な位置の楽曲だ。『Patrick Vegee』の複雑さを隠さない姿勢が現れた構成と言えるだろう。
とはいえ中身はユニゾンの超王道楽曲となっており、田淵がMVを作りたかったほど気に入っているというのも頷ける。変てこなイントロから徐々にメロディが開けていき、サビはイントロからは予想もつかないほどポップで感動的だ。大サビの<暴投です>からの流れは個人的には『Patrick Vegee』第一の泣きポイントになっていると思う。暴投だと思っていたボールが知らない誰かにとってはストレートだということもあるだろう。
<それ超ウケるって笑いながら 地下室迷路を辿ろうか>は「プログラムcontinued」の<それでもまだちっぽけな夢を見てる 目立たない路地裏で超新星アクシデントみたいなこと>に通ずる、いつものUNISON SQUARE GARDENのメッセージ。バンド初期からの変わらぬメッセージを、新作が出るたびに違った角度で提示するのが本当にうまいバンドである。
「帯に短し襷に長し」と「夜は短し恋せよ乙女」を合わせたような<恋に短し愛に長し>は既存の格言をいじって新しい言葉を作り出している。既存曲では「シュガーソングとビターステップ」の「一難去ってまた一難」をいじった<一難去ってまた一興>が同じ作られ方をしているだろう。
アルバム全体を通じて前曲とのつながりを歌詞で表現している今作。M2とM3の歌詞でのつながりを無理やり深読みすると1Aの<揺れるスカート〜>からの流れが"スキャンダル"めいているように感じるだろうか。
曲中に脈絡もなく「I love you」を叫ぶ構成は「リニアブルーを聴きながら」のカップリング曲「ラブソングは突然に ~What is the name of that mystery? ~」を思い出すが、突然の「I love you」 = 愛してる は「世界はファンシー」での愛してるへの言及への伏線となっている。
<アイズワイド 頼んだってさ いたずら まばたき>という一聴では意味が読み取れないフレーズがアルバムのテーマと連動しているのが憎らしい。「アイズワイド」で検索してヒットする言葉はおおきくわけて2つある。慣用句の「eyes wide open しっかりと見る」と、キューブリックの遺作映画のタイトル「eyes wide shut」である(キューブリックがこの映画に込めたメッセージを読み解くと、「スロウカーヴは打てない(that made me crazy)」をもっと深読みができそうだ)。
前者は「目を開け」で後者は「目を閉じろ」という意味だが、今作での歌詞は目を開けるでも閉じるでもなくその間の「いたずら まばたき」だ。AとBの間を狙っていくアルバムのテーマがここでも感じられるのだ。
副題の「that made me crazy」を無理やり解釈するならば、「crazy」が出てくる箇所がそのヒントになるだろう。該当箇所は<見えそうで見えない It's crazy>。ストレートにこの歌詞がある1Aの流れを追っていくと、スカートの中が見えそう見えないことがthat me crazy だと解釈できる。見えることと見えないことの間は見えそうで見えないこと。その間を狙って打つことが「that made me crazyなのだ(見えそうで見えないがアイズワイドのくだりともリンクすることを考えると何重にも意味がありそう)。
throwcurveの楽曲の一節「ネバービリーブロックフェスティバル」をオマージュした歌詞は<You may doubt Rock festival>。ロックフェスを単純に肯定するのでも否定するのでもなく、その隙間を穿つことこそがやっぱり一番楽しいのだと宣言して幕を閉じる。
なお、本曲で筆者が最も好きなフレーズは<そのスタンプラリーに待ったをかけた>である。決められたスタンプラリーを押すように音楽を聞き、集めたスタンプラリーを友達に自慢する。待ったをかけたくなる世の中の流れをうまく言語化した素晴らしい歌詞だ。
斎藤宏介最高ポイント
<それ超ウケるって〜>のギター
M4 「Catch up, latency」
<凸凹溝を埋めています つまりレイテンシーを埋めています>でそのまま「Catch up, latency」へとつなぐ構成。M3の世界観をギリギリ壊さぬまま、曲と曲とのつなぎに使う技術は一級品である。M4にシングル曲を持ってくる構成は『MODE MOOD MODE』でも採用されていたが、シングル曲が最初の3曲に入っていないのはかなり攻めた構成といえるだろう。
リスナーがアルバムを聞かなくなることを避けるためにシングル曲をアルバムの一曲目や二曲目に置くアーティストが多いことを考えると、UNISON SQUARE GARDENが忖度せず好き勝手にやれる立ち位置にいることは素晴らしいことだ。
冒頭の歌詞だけでなく、曲中の歌詞でもM3とのつながりが感じられる。「スロウカーヴは打てない」では<点だけじゃ解読できそうなくてもかわいがれ>という歌詞があり、「Catch up,latency」では<点と線は不均衡に幾何学する>という歌詞がある。それぞれの楽曲という点をアルバムという線で繋ごうとする意図が見えるだろう。
「Catch up, latency」のショートバージョンを初めてYouTubeで聞いた時、なんだか地味な曲だと感じたのを覚えている。その原因は同期モリモリの『MODE MOOD MODE』と「春が来てぼくら」が強く印象に残っていたからだ。シングルを購入してフルバージョンを聴き込んでいくとまた違った印象を抱いたが、「Catch up, latency」の素晴らしさがわかった今だからこそ、アーティストにとって一度ヒット曲などで作ったイメージを覆すことが難しいことが身に染みてわかった。
リスナーは一度ヒットした曲のイメージでアーティストを捉え続ける。だからこそ、既存のヒット曲のイメージとは異なる揺さぶりを仕掛けておくことが重要なのだろう。
メロディや音もユニゾン王道の仕上がりだが、歌詞を読み解いていくことで過去の代表曲とのつながりを感じることができる。<ジグザグすぎてレイテンシーが鳴ってる それが意外なハーモニーになってる>は意図せぬ調和こそが目指すところなのだと「23:25」から変わらぬメッセージを届けており、続く<あまりにも不明瞭で不確実 でもたまんない>は複雑で不確実なものこそ最高だという『Patrick Vegee』のテーマともリンクするだろう。聞き込めば聞き込むほどUNISON SQUARE GARDENの王道ソングだと感じるが、既存曲を超える感動を呼ぶのがラストフレーズだ。
<拝啓わかってるよ 純粋さは隠すだけ損だ 敬具結んでくれ 僕たちが正しくなくても>。純粋さとは程遠くみえる他人を拒絶する振る舞いが、実は純粋な思いから来ていることを前段で語り、後段ではそんな正しくない振る舞いをする僕たちを、それでも結んでくれと願う。ここまで自分たちの思いをストレートに表明した歌詞は今までのシングル曲にはなく、最後の演奏の締め方含めアルバムの最後の楽曲でもふさわしい曲だと思っている。
斎藤宏介最高ポイント
<ヘクトパスカル>の低音
番外編 アルバムの浪漫三箇条
先ほど、「Catch up, latency」はアルバムの最後の楽曲にふさわしい楽曲だと述べた。しかし、UNISON SQUARE GARDENがシングル曲をアルバム最後に置くことはないだろう。その理由はアルバムの浪漫に反するからだ。
アルバムの浪漫三箇条(どこかで田淵が語っていたような気がするがソース不明 筆者の個人的な妄想の可能性あり)は
1.シングルを1曲目にしない
2.シングルを最後の曲にしない
3.シングル曲をつなげない
以上3つである。
1条はシングル曲始まりだとシングルを聴いた時とまったく同じ始まりになってしまうため。アルバムにするのであればアルバム特有の始まりが良いだろう。2条はアルバム最後にはアルバムの集大成や到達点の楽曲が来ることが望ましいため。アルバムの集大成がシングル曲では締まらないだろう。3条はシングル曲が続いてしまうと、聞いたことがある曲が続いてしまいアルバムとしてダレてしまうため。
シングル曲に関わる条件が多いので有名アーティストになればなるほど三箇条を守るのが難しくなる。UNISON SQUARE GARDENはシングルが4曲あった『MODE MOOD MODE』においてもアルバム浪漫三箇条を破らなかった。今後も破ることはないだろう。
M5 「摂食ビジランテ」
M4で一つの流れが終わり、仕切り直しの楽曲となる。曲間を開けて聞こえるのは不気味なギター音と4曲目までにはなかった隙間のある音像。インタビュー等で本楽曲について「セットリストに欲しかった曲」と語っていたが、似ていると話題にあがる「WINDOW開ける」が4分40秒あると考えると2分台の攻撃的だが隙間がある曲は新しい手札だろう。
重要ではなさそうな楽曲の歌詞をアルバムの帯文に採用する近年の試みは本作でも健在で、本作の帯文の「食べられないなら、残しなよ」は「摂食ビジランテ」からの引用である。『Dr.Izzy』の帯文「どこを晒すか、どこを隠すか」は「BUSTER DICE MISERY」から、『MODE MOOD MODE』の「かくして万事は気分の仕業」は「静謐甘美秋暮抒情」からの引用で、どちらも重要な曲とはいえないだろう。
一方『CIDER ROAD』の帯文「行き着いた先に、何もなくとも」は「シャンデリア・ワルツ」からの引用である。「シャンデリア・ワルツ」の重要さを踏まえると、アルバムの帯文に対する試みがここ数年で変化したことがわかる。
「摂食ビジランテ」は帯文に採用されてはいるものの、田淵自ら「何も考えずに書いた」と言っていたように、それほど重要な意味を背負わされていない楽曲だと思っている。一発屋芸人のギャグを楽曲に盛り込んだ「徹頭徹尾夜な夜なドライブ」の<ですから残念>を思い出す<ヘイドクター、メス曲がってる>という歌詞からも田淵智也の肩の抜け具合がわかるだろう。
1Aでの<教育の死>というフレーズのあとに
、教室でやりとりをしているかのような<小林くん、番号教えてよ 浜崎さん、リボンかわいい>が来る。M3の<先生、ペンにも命ありますかって>につながるという解釈もでき、力を抜いた楽曲においてもアルバムとのつながりを作ることも怠らない。
さらに、前曲とのつながりを考えるとM4では<それならその合図で反撃してやろうじゃない>と歌っていたのが「摂食ビジランテ」では<敗北を知る これが撤退の合図>となっている。「Catch up,latency」で反撃の合図を出した直後に「摂食ビジランテ」で撤退の合図を出すのは『Patrick Vegee』らしい揺さぶりだ。
序盤でいったん落ち着いたかと思いきや中盤からも揺さぶっていくぞという姿勢を見せており、まだまだ語ることが残っていそうだ。
※エアリアルエイリアンでは「コールゲーム」が出てきて、摂食ビジランテで「ボールゲーム」が出てくる。よくわからない不思議な曲の中で存在しない○○ゲームが出てくるのはなぜなのだろうか。
斎藤宏介最高ポイント
アウトロの締めギター
M6 「夏影テールライト」
アルバムの中でもっともミクロな感情を歌ったのが「夏影テールライト」。『MODE MOOD MODE』の中の楽曲だと「オーケストラを観に行こう」、過去のシングル曲であれば「流星のスコール」辺りが近い楽曲だろうか。
M5の暗い雰囲気のアウトロから曲間を少し開け、線香花火の様なドラム音が特徴的なイントロへとつながる。歌詞だけを追っていくと前曲とのつながりを考えるのがもっとも難しいが、聞き込む内に不思議としっくり来る曲つなぎである。
独特な比喩表現が連続しており単純に解釈することは難しいが、あえて踏み込んで解釈すると主人公の片想いを描いた楽曲といえるだろう。徐々に主人公が前に進んでいく展開が感動的だが、筆者が一番感動したのは、ミクロな主人公の片想いの揺れ動きがマクロのアルバム全体のテーマと連動している点だ。
M3で<踊らない? 踊れない>と歌っていたユニゾンが、夏影テールライトでは<君が目に映す景色の中 いついつでも踊っていたい>とあなたが見ている景色の一部ならば踊っていてもいいよと歌う。続く<君の声をふと見つけてしまう ダメだよほら近づきたい>は、アルバムのテーマである揺さぶりが主人公の自意識と重なることで、アルバムのテーマも自意識の問題に過ぎないことも示唆している。
2Aでは<描き方もヘタだけどちょっとは意識してほしい わがままかな どうしてこんなにも器用じゃないんだ>と歌い、ポップミュージックの真ん中にいけないバンドの活動遍歴を意識したような歌詞で、主人公の感情とバンドのストーリーが綺麗に重なっていく。
『Patrick Vegee』のテーマである簡単な解釈の拒絶とつながる<君が置いていった言葉なら何回もループしてるけど 本当の意味はわかんないならこれは僕の検証事項>。簡単に解釈することはできないからこそ、本当の意味を確定させずに言葉を検証しつづけることが誠実な態度だと歌う。
ミクロの主人公の感情が高まっていくとともにマクロなアルバムとのリンクと高まっていき、ひとつの結論が出たように思えるのが落ちサビ部分である。<この道の先がどうなるのか 知らないから知ってみたい>、本来は「知りたい」が正しい日本語だが「してみたい」とすることで感情の機微を表現しつつ、メロディに嵌めていく技術が素晴らしい。複雑なアルバムがわからないからこそ、それを紐解いていきたい。筆者が「夏影テールライト」の中でもっとも好きな歌詞だ。今までのバンドの作品とのつながりもあり、「この道の先がどうなるのか」というフレーズは傑作アルバム『CIDER ROAD』の「シャンデリア・ワルツ」の影響があるだろうか。
素晴らしいフレーズの後に続く落ちサビの締めは<一つずつ君を知れるなら傷つくのも検討事項>。主人公がヒロインと関係性を進めていこうとするならば傷つくリスクを背負わなければならない。自分が傷つくリスクを負ってでも君のことを知りたいのだと歌っている。アルバムをリリースするということも他者から批判される可能性があり、傷つくリスクを負っている。リスクのないコミュニケーションは存在しないが、それでも誰かと繋がれる瞬間を求めて自分の思いを伝え続ける。
「Phantom Joke」につなぐため<幻に消えたなら、ジョークってことにしといて。>で締め。今まで語ってきたことは冗談にしておいて欲しいという主人公の独白だと解釈しても通じるうえに、ミクロな感情を歌った楽曲がアルバムの中で幻のように消えていくラストが美しい。
斎藤宏介最高ポイント
間奏の美しいギターソロ
M7 「Phantom Joke」
『Patrick Vegee』の煽り文句「なんかグチャッとしてんだよな」を、一聴した時に最も感じたのがM6M7のつなぎだ。「夏影テールライト」の余韻を断ち切る「Phantom Joke」のサイレン音のようなイントロ。何度聞き込んでも、もうちょっと余韻を楽しませて欲しいと感じる曲順は、意図的に仕掛けられたグチャッとポイントだろう。個人的にはLive in the house 2の「crazy birthday」〜「オーケストラを観にいこう」のつなぎを思い出す。常人には思いつかない情緒がおかしいつなぎに笑ってしまうが、笑いのあとになぜか感動している自分がいるのだ。
「Phantom Joke」はUNISON SQUARE GARDENのキャリア史上最大のタイアップだった。しかし、「オリオンをなぞる」、「シュガーソングとビターステップ」ほど話題になっている印象はなく、ヒット曲は計算できないことがよくわかる。「オリオンをなぞる」のタイアップ元「TIGER & BUNNY」、「シュガーソングとビターステップ」のタイアップ元「血界戦線」は両者とも「Phantom Joke」のタイアップ元「Fate Grand Order」(以下FGO)ほど放映前に話題になっていなかったのだ。(「TIGER & BUNNY」は作品そのものがヒットしたが「血界戦線」の場合は「シュガーソングとビターステップ」のほうが作品そのものより有名になってしまった印象がある)
「シュガーソングとビターステップ」がヒットしていた当時、田淵はインタビューで「ヒット曲はボーナスステージとして訪れるものにすぎない」と語っていた。狙った曲がヒット曲になるのではなく、ボーナスとして偶然ヒット曲が訪れるという現象は、アーティストと世の中の関係において普遍的に起こっているものだと思っている。意図して描いた重なりよりも意図せず描かれた重なりのほうが美しいというのはユニゾンがいつも言っていることだが、ヒット曲が生まれる時にも同じようなことが起こっているのだ。
さて、「Phantom Joke」はユニゾン史上最高難易度の楽曲である。難解な楽曲を3人が戦うように演奏する姿はタイアップ元であるFGOにて様々な理不尽と戦い続ける主人公たちと呼応する。歌詞もFGOに寄り添ったものとなっており、アニメ化された第7章だけでなくその先のストーリーまで想定しているように感じられる。
タイアップ元に寄り添いながらもユニゾンらしさを失わないという難解なミッションを、「オリオンをなぞる」等いままでのタイアップ曲と同様にまたしても達成した楽曲だと言えるだろう。
サビの<心まで霞んで蜃気楼 善々悪々も審議不能になる>はAともBとも解釈できずに審議不能になっていくアルバムのテーマとリンクしている。夏影テールライトでは<少しずつ書き足してく物語>だったが「Phantom Joke」では<大切なフレーズをこぼすな 物語がゴミになる>となっており「夏影テールライト」で紡いだ物語を無駄にするなと前曲とのつながりも感じさせる構成だ。
<まだ世界は生きてる><まだ愛していたい>と繰り返される感動的なフレーズが次曲「世界はファンシー」ではどのように展開されるのか。<I"ll never catch bad fake>とFGOの重要なモチーフである「フェイク」と、タイトルである「Fate」をかけた締めは勢いそのまま「世界はファンシー」へとつながる。
斎藤宏介最高ポイント
<つまりこの空の先を見たい>の"たい"の戦っている感
M8 「世界はファンシー」
『Patrick Vegee』のリード曲「世界はファンシー」はユニゾンにいままでになかったタイプのロックチューンだ。色々なタイプの楽曲を世に出してきた印象があるが、それでもまだ異なる手札があるというのは田淵智也の才能の現れだろう。不思議な中毒性がある曲でPV発表時から繰り返し聴いてしまった。個人的にはジャケットのウサギのアメコミ感ともっとも親和性がある曲だと思っている。
冒頭の<某日ちょっと革命を起こし「奴の王国は終わった」>は『MODE MOOD MODE』1曲目が「Own civilization(nano-mile met)」であることから『MODE MOOD MODE』 で立てた王国が終わってしまったことを感じさせ、続く、<なんて言ってしまったらどうする? 彼の全信頼はどうなる?>は『MODE MOOD MODE』 で自ら踊ろうと提示した手を信頼したファンたちはどうなるんだ?と自虐しているようにも取れるだろうか。どんなに信頼していたとしても<与奪は決められてしまう>のであってバンドが<時限爆弾>のように解散してしまうこともあるのだ。
M3で<I love you>、M7で<まだ愛していたい>と歌い「世界はファンシー」ではそれらを揶揄する<愛だ愛だ愛だ なんか聞き飽きちゃった>というフレーズが出てくる。アルバムの中で「愛している」を複数回使うことで<なんか聞き飽きちゃった>の鋭さが増している。なおM1の中で<愛してるだけなら20000回>という歌詞があるが、「愛してる」を歌っているのがアルバムの中で2箇所あることを考えると"2"0000回がアルバム中での登場回数に合わせて来たかのようにも思えてくる。
意味のないように感じるサビも深読みすると見えてくるのものがある。<きっと単純に終わり迎えたら ダサく散ってrebornするんだって>で、このアルバムが単純に終わりを迎えないことを示唆している。一聴では絶対に聞き取れない<Continue?とっく>はバンドを続けていくことをとっくに決めているんだと歌っているようにも思える(本稿の中でもっとも無理筋な深読みだろう なお、筆者は「プログラムcontinued」の<ふざけろ 続けフルカラー>が「ふざけろ 続けてるから」に聞こえるのはわざとだと思っているくらい自分勝手に深読みをしている)。
<シータタンジェント>は2番冒頭の<偉そうな態度で筆記問題を見舞った>やM3、M5とリンクする学校関連の言葉。<ロールシャッハって魂胆なんだ>はロールシャッハテストが抽象的なインクのしみのような図形が何に見えるかという心理テストであることを踏まえると、複雑な『Patrick Vegee』が何に見えるのかをロールシャッハテストのように提示していく魂胆だと深読みできる。
2番では<一丸っていうのはただ丸くすることなんだっけ>とM3でもあった既存の世の中や音楽業界への疑義を提示し、<ロックンロールの方がおいしそう>と「フルカラープログラム」から変わらぬロックンロールへの愛を歌う。
「Phantom Joke」で世界と戦って生きていくことについて真面目に語っていたのにも関わらず、2サビ前に<こんな世界が楽しすぎちゃって愛しすぎちゃって ハッピー!>とふざけた口調で歌うのは『Patrick Vegee』らしい揺さぶりだ。2サビラストは、「mix juice」の言うとおりの<一聴では読み解けないならそれこそが贅沢な暇つぶしって>をセルフオマージュした<どうせ一聴じゃ読み解けないから 頬を出せ>。
「右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ」という聖書の有名な言葉を思い出す歌詞は、1Aでの<癇癪を起こし勢い任せ殴った>からすると殴る立場の人間が頬を出せと要求していると解釈でき、元の言葉とは異なった状況が想像できる。続く、<My fantastic guitar>でギターソロに入るアイデアはオトノバ中間試験で斎藤に<呆れるまで斎藤に任せといて>と歌わせたことを思い出させるアイデアだ。
長々と語って来た「世界はファンシー」だが、この情報量の曲が3分24秒という短さで終わっていることから、ユニゾンの情報圧縮技術の凄まじさが最もわかる曲と言えるのではないだろうか。最後は<The world is fancy Fancy is lonely>で次曲へつながる。世界はファンシーで孤独なものだ。
斎藤宏介最高ポイント
<口実作って以上終了だ>
M9 「弥生町ロンリープラネット」
世界=惑星=僕らが孤独だと歌う歌詞から始まるのは漫画「椿町ロンリープラネット」をオマージュした「弥生町ロンリープラネット」。恒例の勝手に主題歌を作ってみたシリーズだ (勝手に主題歌を作ってみたシリーズは多くあるが、あまり言及されていないところだと「夢が覚めたら(at that river)」はラ・ラ・ランドの主題歌だと思っている)。
「スロウカーヴは打てない(that made me crazy)」の勝手に既存バンド曲をオマージュする手法や、勝手に主題歌シリーズは、他のどのアーティストも真似していないはずだが、田淵自身が革命的な作曲手法だと感じているからこそシリーズ化しているのだと思っている。
アルバム唯一のバラード曲だが(ここでのバラードは比較的ゆったりとしたテンポ感の曲くらいに捉えて欲しい)、イントロはバラードだと感じさせないような不思議なギターリフから始まる。いままでのアルバムでもバラード曲は必ず一曲は含まれていたが、ここまで変化球なイントロのバラードは珍しい。あえて既存曲に当てはめるなら『DUGOUT ACCIDENT』に収録された「夕凪、アンサンブル」が近いと言えるだろう。
「弥生町ロンリープラネット」というタイトルは他シングルのタイアップ曲よりも露骨に元作品のタイトル「椿町ロンリープラネット」に寄せている。タイアップではない非公式なオマージュのほうが、より作品に寄っているのも『Patrick Vegee』の揺さぶりの現れだろうか。
Aメロ後半は<まだ寒い帰り道あの坂 上れば待っていてくれるかな 不透明なみじめさが恥ずかしい どうしようおかえりが聞きたい>。短い行数で「椿町ロンリープラネット」を語る歌詞であり、椿が「まだ寒い」3月に咲く花だということからも、この歌が引用元にこれ以上ないほど寄り添っていることがわかる。
引用元の作品に寄り添いつつ、アルバムのテーマやロックバンドであることを忘れないのがUNISON SQUARE GARDENだ。そのロックバンドらしさはテンポが遅いバラード曲でもストリンズ等はつかわず、サビの始まりに歪んだギターを鳴らしていることに象徴されるだろう。
サビでは「椿町ロンリープラネット」で印象的だったセリフと、アルバムのテーマがリンクするフレーズが歌われる。<本当に伝えたいことは伝えないのが当たり前なんだと思っていた>。「思っていた」と過去形になっているのが冬の終わりが近づいていることを感じさせる。
<小さな宇宙で漂ってたはずの心 いまはもう思い出せそうにないな>。宇宙でひとりぼっちだった惑星が同じく孤独な惑星と近づくことで惹かれ=引かれ合い、孤独だったことを忘れてしまう。そして、筆者が個人的に一番好きな歌詞が<理由はうまく言えないほうが たいせつの理由になれそうだ>である。はっきりと一つの言葉にすることでむしろ大切なことが零れ落ちてしまうことを描く歌詞は、なぜユニゾンが一聴ではわからない難解なことをやっているのかを端的に表現しているのだろう。
<あいまいを無理やりきらめきに置き換えて>で、複雑な気持ちを無理やりにきらめきや勇気に置き換えてコミュニケーションを取っていく姿は「Catch up, latency 」や「夏影テールライト」で出した結論とつながっているが、<それでも不安だな それでも苦しいな これはわがまま?>と結論が出たはずの問いに疑いを向ける。<ほんものはどっちだ これはわがまま?>。
相手のことを思ってコミュニケーションを取っているのか、それとも自分のエゴでコミュニケーションをとっているのかはどこまでいっても結論がでない。それでも、「椿町ロンリープラネット」の最終巻のセリフを借りて一旦の結論を出す。誰かといるから名前を呼べる。そんな単純なことがしあわせになる。
斎藤宏介最高ポイント
サビ始まりの歪んだギター
番外編 椿町ロンリープラネットとひるなかの流星
※椿町ロンリープラネットとひるなかの流星のネタバレに触れています
椿町ロンリープラネットの作者、やまもり三香先生の代表作がひるなかの流星だ。ユニゾンの勝手に主題歌シリーズにも「8月、昼中の流れ星と飛行機雲」で登場している。
ひるなかの流星は担任の先生に恋をする女子高生の主人公と、その主人公に恋をする同級生男子の三角関係というありきたりともいえる設定からスタートする。少女漫画は主人公のヒロインと序列一位の男がくっつくのは当たり前で序列二位の良い人ポジションの人物は「当て馬」と呼ばれている。
ひるなかの流星もその例に漏れず最後の最後まで序列一位が勝利するかと思われたが、ヒロインの主人公が選んだのは当て馬ポジションの同級生だった。最後までどちらを選ぶのかわからないというのはエンターテインメントの常套手段だが、それを説得力あるかたちで示し序列を覆してみせたひるなかの流星は傑作だ。
一方、椿町ロンリープラネットでは揺れ動く三角関係にフォーカスした作品ではなく、運命的に相性が良い2人の関係性を丁寧に描く作品だ。椿町ロンリープラネットもひるなかの流星と同じく女子高生と年上男性の恋愛話ではあるが、ひるなかの流星ほど「禁断の恋」感が少ない。
その理由は椿町ロンリープラネットの主人公が大人びていることと年上男性の職業が先生ではないことが影響しているだろう。まさに、弥生町ロンリープラネットで歌われているように<交わっちゃいけないってほどじゃないけど あんまり誰かには言いたくないような>関係性だ。
やまもり三香先生はひるなかの流星のころから画力が高かったが、椿町ロンリープラネットでは更に画力が向上している(特に年上男性の描き方には強い情念を感じる)。画力というガワの部分も素晴らしいうえに、中身は登場人物を誰も置いていかないストーリーとなっており両作とも素晴らしい傑作なのでぜひ読んでいただきたい。
M10 「春が来てぼくら」
2020/7/15にNHKホールで行われた配信ライブ、Live in the houseで初めて披露された「弥生町ロンリープラネット」〜「春が来てぼくら」の流れ。本来はfun time HORIDAY8にて披露する予定だったことからライブで初めて演奏することが前提だったことがわかる(fun time HORIDAY8のチケットが取れなかったので個人的にはオンラインで初披露となって良かった。この初披露を見逃すのは悔しすぎる)。
なお、7/15は本来の『Patrick Vegee』のリリース日で、NHKホールはリリース記念ライブをするために確保してあった会場であったとのこと。筆者の推測は、リリース記念ライブは完全にアルバムと同じ曲順でおこない、リリースツアーのセットリストはアルバムと同じ曲順が一切ないツアーになっていたのではないかというものだ。
個人的なアルバム第二の泣きポイントが「弥生町ロンリープラネット」〜「春が来てぼくら」の流れである。Live in the houseで披露されたとき、弥生町ロンリープラネットのラストで<そして僕らの春が来る>と歌われた瞬間に次の曲が「春が来てぼくら」であることがわかり、感動的なイントロが鳴り響いた瞬間は忘れ難い。
既存のシングル曲がどのようにアルバムの流れに組み込まれるのかは、好きなアーティストのアルバムがリリースされるときの楽しみの一つだ。アルバムの流れの中で聴くことで、シングルで聴いていた時とは違った聞こえ方になるのはまさにアルバムの魔法だ。
ユニゾンのアルバムのシングル曲を絡めた曲順で個人的に好きなものは、5thアルバム「Catcher in the spy」の「流れ星を撃ち落とせ」〜「何かが変わりそう」〜「harmonized finale」の流れである。ロックなトーンの5thアルバムのなかでバラードの「harmonized finale」をどのようにアルバムに配置するのかワクワクしていたが予想の上をいく素晴らしい流れだった。(Live on the seatでの「徹頭徹尾夜な夜なドライブ」〜「ライドオンタイム」〜「harmonized finale」の流れも「harmonized finale」のもつポテンシャルが最大限に発揮された流れだと思っている)
「春が来て僕ら」もそのポテンシャルを最大限に発揮するために、「弥生町ロンリープラネット」の最後の歌詞で曲をつなげるという新しい試みをおこなった。アルバム全体を通して歌詞で曲をつなげるスタイルは「弥生町ロンリープラネット」〜「春が来て僕ら」のつなぎを思いついてからだと田淵がインタビューで語っていた。「春が来て僕ら」をアルバムに配置する難しさが一転してアルバムを歌詞でつなげるワクワクにつながったのだろう。
「三月のライオン」という大傑作がタイアップ元となる「春が来て僕ら」は作品に寄り添いつつも楽曲としての射程範囲が広くなっている。「弥生町ロンリープラネット」とは違い直接的に三月のライオンを思い出させるフレーズではなく、もう一段階歌詞を抽象化してより広範囲に届く歌になっている印象を持つ。
<また春が来てぼくらは あたらしいページに絵の具を落とす 友達になった おいしいもの食べた たまにちょっとケンカもした>は三月のライオンだけでなく普遍的な日常の尊さを歌い上げるものだろう。とはいえ冒頭の<咲き始めたたんぽぽと雪になりきれずに伝った雫>は三月のライオンの主人公の名前が「零」であることを踏まえると、タイアップ元とのリンクも充分に感じられる。
アルバムのテーマと絡むのは<出来上がるページを見る誰かのためを想う そんなんじゃないよね>から続く一節。完成を予想してページを書くという当たり前の事を否定し、<今じゃなきゃわからない答えがある わからないっていうならざまみろって舌を出そう>と、ロックバンドは今を生きるのだと主張する。
<夢が叶う そんな運命が嘘だとしても また違う色混ぜてまた違う未来を作ろう>はこれからもアルバムごとに違う色をつけていくことの宣言だろうか。「春が来てぼくら」の曲中でもっとも美しいフレーズが<神様がほら呆れる頃 きっと暖かな風が吹く>だろう。ほんとうに風が吹いているような美しい音と「三月のライオン」という物語をそのまま体現したようなメッセージが胸を打つ。苦しいことがあったとしても、暖かな風が吹く瞬間はきっと訪れるだろう。
落ちサビにも感動的な仕掛けがある。<また春が来てぼくらは ごめんね 欲張ってしまう>の<また春が来て僕ら>はサビと同じメロディだがその後の<ごめんね 欲張ってしまう>で、曲の中ではなかった新しいメロディが展開される。<新しいと同じ数 これまでの大切が続くように、なんて>は多くの新しい試みをおこないながらも、始まった当初から変わらないメッセージを届け続けるバンドの姿とリンクする。
夏影テールライトで夏、弥生町ロンリープラネットで秋、春が来て僕らで春を描いたユニゾンは<何度目かの木漏れ日の中で 間違ってないはずの未来へ向かう>。季節は何度も巡り、保証も何もない<片道切符>を持ってアルバムはクライマックスへ向かう。
斎藤宏介最高ポイント
Live in the houseで春が来て僕らのイントロが鳴った瞬間のにやけ顔
M11 「Simple Simple Anecdote」
ユニゾンの曲を深読みしていて語彙が増えることはよくあるが、「Simple Simple Anecdote」に使われているアネクドートという言葉もその一つ。「春が来てぼくら」のカップリング曲、「ラディアルナイトチェイサー」で使われていた言葉だったため、再度調べなくてよかったファンも多かったのではないだろうか。(「春が来てぼくら」〜アネクドートを使った楽曲につながるのは何か意図がある?)
3rdアルバム『Populus Populus』のラスト曲「シュプレヒコール~世界が終わる前に~」や、5thアルバム『Cather in the Spy』のラスト曲「黄昏インザスパイ」を思い出すようなストレートな歌詞、そして「101回目のプロローグ」の特異性を考えると「Simple Simple Anecdote」が『Patric Vegee』の実質的なラスト曲だと思っている。
印象的なドラムから始まる最初の歌詞は<僕の言葉が死んだ時>と衝撃的なフレーズだ。「春が来てぼくら」の感動的な最後からまた揺さぶりをかけている。続く、<車のエンジン音おみやげに 一つ物語が終わる>は「車」というモチーフが「黄昏インザスパイ」との関係性を感じさせる。「黄昏インザスパイ」では<止まれないなら車に轢かれちゃう>と歌っていたが、「Simple Simple Anecdote」ではほんとうに轢かれてしまったかのような歌詞になっているのだ。
<瞬間の循環に逡巡してる間に>は物語 = アルバム が終わった瞬間に、また次の循環 = アルバム をどのように歩んでいくかを逡巡して(迷って)しまうことを表しているのだろうか。「シュプレヒコール~世界が終わる前に~」の<知った風なラブソングが街に溢れる>に通じる<大嫌いな勲章がまた街になる>は、次の一手を悩んでいる間に世の中がまた嫌な方向に進むこともあることを示す。
アルバムの中盤「Phantom joke」で<全部嫌になったそれさえも幸せな結末か>と歌っていたが、本曲のサビでは<全部嫌になったなんて簡単に言うなよ 全部が何かってことに気づいてないだけ>と悩んでいたことを吹き飛ばすストレートなメッセージを歌う。冒頭で出てきた車とつながる、日常的な<信号は変わる>とマクロな事象である<星はうまれるから>を並べた後は、<なんとかなるぜモードでいいや>と『MODE MOOD MODE』(モードなムードのモード)から『Patrick Vegee』のぐちゃっとしててもなんとかなるさモードへ転換したことを表しているように読み取れる。
2サビが落ちサビになりそのまま大サビへ向かう構成で、スパッと2分15秒で終わる本曲。終盤にふさわしくストレートに泣かせる歌詞は落ちサビで頂点を迎える。誰にも届かなくてもいいと自己満足していたのに、同じ光を見ている人がいることを知る。全部が全部嫌なことばかりではなく、全てが報われたと思う偶然だってこの世界にはあるのだ。年月は重なり季節が流れ、また新しい始まりが訪れる。
斎藤宏介最高ポイント
<同じ光を見る なんてことはある>
M12 「101回目のプロローグ」
『Patrick Vegee』最後を飾るのはアルバムを体現するぐちゃぐちゃな楽曲。組曲を作りたい、とインタビューで語っていた通り、曲中での展開が多く一聴ではどこで終わるのかがわからない。前曲の「Simple Simple Anecdote」のシンプルな美しさが嘘のような展開で聞く人を惑わせるのは、安易な解釈を許さずに多面性をそのまま表現する姿勢があらわれている。言葉のレベルだけでなく曲の構造のレベルのメッセージを味わえるのは音楽というエンターテインメントならではだ。
「101回目のプロローグ」は「Simple Simple Anecdote」でストレートなメッセージを発した直後、それを真っ向から否定する<ごめん全然聞いてなかった>から始まる。心を込めて話したことを全然聞いていない人は大勢いる。ただ、話を聞いていない誰かも、悪い感情からそうしているわけではなく他に<大好きなものがありすぎて>聞いていないだけなのかもしれない。「Simple Simple Anecdote」だけでなくこれまでのアルバムの流れ全てを<全然聞いてなかった>と吹き飛ばすフレーズは、人と人とのコミュニケーションがどこまでいっても不完全であることを思い出させる。
M9〜M11の流れの中で世界を肯定的にみることもあったが、やはり世界が素晴らしい未来に溢れているということはない。続くフレーズで世界が素晴らしくないからこそ<嘘をついて>でも遊んでいたいと歌うのは、いままでアルバムで歌ってきたことも嘘じゃないかと疑われるだろう。自分の歌を嘘だと否定してまで『Patrick Vegee』で表現したいことは一体何なのだろうか。
<季節季節絡まってなんだっけ>は季節を何度も通り抜けたバンドの道のりを示すが、その道のりは世界を肯定するAという主張と世界を否定するBという主張が絡まってしまい、<なんだっけ>とよくわからなくなっている。しかし、<期せず>して手に取ったパズルのピースが、バンドが再び歩き出すきっかけとなる。意図せず集まったパズルのピースをはめて一つの景色を描き出すのはUNISON SQUARE GARDENが散々やってきたことだ。
「23:25」では最高なギターリフに乗せて意図しない偶然の一致がもたらす美しさを歌ったし、「クローバー」ではそっと抜け出したパーティの苦い思い出も人生を救ってくれた大好きな映画もどちらも意図せず未来のパズルに続いていることを歌った。UNISON SQUARE GARDENがライブでのコールアンドレスポンスをせず、観客に寄り添わないことを重視するのは、意図せず描かれた景色の方が意図して描いた景色よりも美しいと信じているからに違いない。信念を持って偶然生まれる景色の美しさを描き出し、<世界が始まる>鼓動を待った先にサビが来る。
サビの<君だけでいい 君だけでいいや こんな日を分かち合えるのは>は当然ファンなら記念ライブでの景色を思い出すが、<君だけでいい>と多くの人に受け入れられることを諦めたとも取れる歌詞がユニゾンらしさだ。
続く歌詞は、M11での<そんなことで運命を呼び出すな>の返答として<でたらめな運命値でしか描き表せないから>と歌う。アルバムの最後の最後まで前曲とのつながりを意識し続ける。
『MODE MOOD MODE』のラスト曲「君の瞳に恋してない」に続いてアルバムラストのタイトルが既存作品のダジャレになっている「101回目のプロローグ」。何度も繰り返す<よろしくね はじまりだよ>がタイトルを表しているが、アルバムのラストに始まりを何度も繰り返す楽曲を持ってくるのがなんとも洒落ている。
一度目の<よろしくねはじまりだよ>の後は<守らなくちゃいけないんだ だから嘯いてでも遊んでいたい>。自分がいたいと思う場所を守るためには<嘯いて>でも遊ばなきゃならない。世界はそのままで素晴らしいわけではなく、より良い居場所を作るために一工夫が必要なのだ。
次のセクションではUNISONSQUARE GARDENの今までの道のりを振り返る。「流星行路」、「オリオンをなぞる」、「弥生町ロンリープラネット」等キャリアの各所で星をモチーフにした楽曲を作ってきたユニゾンが歌う<数えきれぬ星たちを通過してきたよ 歯がゆいことだっていっぱいあったよ>は、そのキャリアが決して順風満帆ではなかったことを物語っている。
キャリアの中でもっとも大きな挑戦だった15周年の記念ライブを成功させ、「春が来てぼくら」で<間違っていないはずの未来へ向かう>と言い切ったユニゾンが本曲では<間違っていないはずなのに 迷子みたい情けないな>と歌う。成功を手にして自分は間違っていないと確信した後も、同じことで悩んでしまうのはバンドも人間も同じだ。
迷子の僕らを導くのは誰かがくれるはっきりとした答えではなく、まだ見ていない景色。「10%roll,10%romance」の<君がどんなフレームに僕を入れるのか 知りたいけど4年くらいは後でもいいや>と同じように「101回目のプロローグ」で<本当の気持ちを話すのは4年くらいは後にするよ>と歌う理由は、大事なことをはっきりと言葉にする = フレームにいれる ことはせず、あえて言葉にしないことでまだ見ていない景色を作るためである。
二度目の<よろしくねはじまりだよ>の後は大サビに向かうかのような間奏から、グチャッとしているアルバムを体現する「101回目のプロローグ」の歪さに言及する。
<取り繕ったエピローグを怖がってるのはなんかダサいからって言えるのは今のうちかも>から「101回目のプロローグ」というエピローグが取り繕ったシンプルなものではなく、歪なものだということがわかる。だが、歪なエピローグを含むアルバムこそが『MODE MOOD MODE』の後、15周年のお祝いの後というキャリアの流れから必要なものなのだ。
三度目の<よろしくねはじまりだよ>からはいよいよクライマックス。凄まじいセッションから再び「シャンデリア・ワルツ」を思い出させる<そうやって鼓動を待つことにしたよ>。続く落ちサビは大事なライブでの「フルカラープログラム」を思い出させるようなアカペラ箇所から<世界は七色になる!>へとつながる。七色 = フルカラー とリンクする感動的なキラーフレーズだが、その直後に<ごめん全然聞いてなかった>をAメロとは異なるメロディーで歌う。バンドのもっとも大事な楽曲に対しても「全然聞いてない」と揺さぶり続ける姿勢に不思議な感動が沸き起こってくる。
田淵は「101回目のプロローグ」についてインタビューで「ファンとバンドのことを歌った曲ですよね?」と問われた際、「そんなことない」と答えている。もしもここで「そうです」と答えてしまえば「101回目のプロローグ」という複雑な曲がファンとバンドのことを歌った曲に落とし込まれてしまう。
『Patrick Vegee』は全編を通して複雑なものを複雑なまま描き簡単な解釈を否定してきた。それは簡単にひとつの言葉にしてしまうことが純粋さを損ねてしまうからだ。「101回目のプロローグ」はファンとバンドのことを歌った曲でもあるし、バンドにとってファンなんて関係ないという曲でもあるのだ。言葉を使ったコミュニケーションは感情をひとつの言葉に落とし込んでしまうが、実際には「好き」と「嫌い」が同時に存在することもよくあるだろう。だからこそ、感情や音楽という複雑なものをひとつに解釈することは誠実な振る舞いではないのではないかと思っている。
『Patrick Vegee』のラストは<知らないままで遊びにいこう 魔法が解けるその日まで>。どこまでいっても相手の気持ちはわからず、言葉で口にしても本当のところ何を思っているのかは本人も含め誰にもわからない。感情や音楽は言葉以前のもので、完全に理解し合うことはありえない。それでも、何を考えているか知らない相手と一緒に遊びにいこうとすることがもっとも重要だ。
本当のことが何もわからない世界で、偶然出会った他人同士が同じ景色を見ることはまさに魔法だろう。間違った言葉で溢れる不完全な世界ではその魔法は永遠ではなく明日にでも突然終わってしまうかもしれない。しかし、永遠に続くものではなく必ずいつか解けてしまうからこそ魔法は輝きつづける。
斎藤宏介最高ポイント
アカペラ部分でかすれる声
あとがき
『Patrick Vegee』はアルバムとしてちょうどいい長さの45分終わっているため、繰り返し聴きたくなる。あらためて一曲目の「Hatch I need」を聴くと<まだあらすじは終わってない>と歌う歌詞がある。繰り返し聞かれることを踏まえてM12→M1とのつながりを作っているのだろう。まんまと罠にはまり繰り返し『Patrick Vegee』を聴いている。
ユニゾンのアルバムの中で最も思い入れがある作品は、高校二年生の時に始めてアルバムの素晴らしさを感じた『Populus Populus』だ。また、ユニゾンのアルバムの中で最も完成度が高いと思っているのは『MODE MOOD MODE』だ。8thアルバム『Patrick Vegee』はもっとも誰かに話したくなるアルバムだった。
冒頭で『Patrick Vegee』のテーマ3つを挙げたが、あれらは『Patrick Vegee』のテーマというよりもUNISON SQUARE GARDENをあらわすテーマだろう。ユニゾンのユニゾンらしさがもっとも前面に現れた作品だと思うから語りたくなったのだと思う。
言葉を使って音楽を語るのはナンセンスかもしれないが、想像しながら言葉を使うことでしか相手に伝えることはできない。それぞれの人がそれぞれの場所で、好きな音楽の何が好きなのかを語り合う機会がもっと増えればいいのにと思っている。
かっこいい演奏とメロディーでいつのまにか身体が揺れてしまう、という直感的な楽しさが『Patrick Vegee』にはたくさんあるが、歌詞やテーマにフォーカスするともっと楽しめそうだと思っていただけたなら幸いだ。今後も油断することなく自分の意思で音楽にワクワクしていきたい。