あるということ。
課題研究と科目終了試験を一気に終わらせた。
やっつけ仕事になってしまったが、とりあえずは終わった。
でも、またレポート作成を始めなければならない。
なんだか、やる前から気が遠くなってしまう。
とはいえ、働かなければならないし、やるべきことはやらなければならない。
むしろ、やるべきことがあることに、
働く場所があることに、救われている。
話は変わって、最近、「在る」ということの意味について考えていた。
たとえば、私にとってのnoteの存在。noteが在るということについて。
noteは、自分自身や 自分の感情が表現できる、唯一の場所である。
もちろん、表現しても、しなくても、文才がない限り、私の人生は何ひとつ変わらない。
実生活では、人前では、むしろ感情を切り離したほうが楽だと思うことばかりだ。
だからこそ、この感情を、いつでも「開けゴマ、閉じろゴマ」と、自在にできる、この場所に意味を見いだしているのかもしれない。
そして、例え閉じていても、扉の向こうに確かに在る、いや在るだろうという、不確かな存在感こそが、私をほんの少しだけ救ってくれる気がしてならないのだ。
もしかしたら、それは陽炎なのかもしれない。
それでも、見えない扉の先が、無ではないかもしれないという、わずかな望みを抱かせてくれるのである。
だから、私はnoteに感情を吐き出すのだろう。
そういえば、私の好きなバンドのボーカルが作る歌は、曲はかっこいいのだけど、私からみても救いようのないくらい暗い歌詞の曲が多い。
それでも、聞くのは共感する部分が多いからと、そんな彼が今日もどこかで頑張っているなら、私も頑張ろうと思えるからだ。
そんな風に、誰かの存在に、直接触れなくても、それをほんのわずかでもふっと感じられるだけで、たしかに救われる瞬間はあるのである。
私は、誰かのそんな存在になれるだろうか。
情けないくらい救いようのない私をみて、ふっと笑ってくれるなら、きっとそれだけで私は、救われるだろう。
だから、私は、情けない自分をnoteでさらけ出すのだろう。
追伸。投げていただいた温かいボールは、なんだかもったいない気がして、まだ私のグローブの中にあります。ありがとうございます。
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