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「咳をしても一人」の解放感。
「咳をしても一人」
有名な俳人尾崎放哉の代表句のひとつである。
昔、教科書か何かで読んだ記憶がある、一見単純なようで、かなり複雑な句である。
ネット情報を丸呑みすると、ずっと自由気ままに生きていた彼は、仕事や奥さんから逃れ、やがて一人になり、病に倒れ、孤独感や貧困に苦しみながら生き抜いた人らしい。
そんな彼が読んだ句が、
「咳をしても一人」
俳句の中でも、自由律を好んでいた彼は、根っからの自由人だったのかもしれない。
そして、その自由と引き換えに、想像しただけでも気が遠くなりそうな程の、とてつもない孤独感に苛まされる事になってしまったのかもしれない。
「咳をしても、誰も助けてくれない。
私は孤独である」
と、これが、今までの私の受け取り方だったのだが、でも、改めてよく読んでみると、なんだかちょっと違和感を感じたのだ。
私は、むしろ彼が孤独感や貧困、そんな生き方を選んだ自分や自分の人生を受け入れたことを表した句であり、今まで抱えてきた悩みを手放せたからこそ、書けた句なのではないか、と思ったのである。
なぜなら、そこに彼の、もうこれ以上、孤独感と葛藤しないという覚悟のようなものを感じたからだ。
覚悟を決めた瞬間、彼は解放された。
だから、彼は句にできたのではないか。
そう、私は感じたのだ。
と、ここでなぜ今日、尾崎放哉について書こうと考えたのかについて書かねばと思う。
実は、昨日、今日の仕事先で、私は、今まで手放していたはずだったものと対峙せざるを得ない二日間を過ごすことになり、これからも対峙するのかと考えると、すべてに嫌気が差してしまいそうになっていたからである。
そして、そんな時に、尾崎放哉の句が、ふと甦ってきて、彼の句に想いを馳せていたからだ。
私は、果たして彼のように、生きられるのだろうか。
最後は、受け入れ、解放させる。
今の私には出来ないから、出来るまで、
ただただ、試行錯誤を繰り返していくしかないのだ。
その試行錯誤にさえ、疑問を感じてしまう日々が来ないことを願いつつ。
彼の自由を愛した心に憧れながら、しばらくは、まだわずか残る光のあたる道を歩いていこうと思う。
そして、いつか本当に対峙し、受け入れられる日が来るまで。