早寝早起きすぎる朝。
午前3時。
目が覚めてしまった。
ヤバい。
眠れない。
と、言いたいところだが、昨日寝たのが21時。
バッチリ6時間は寝ていることになる。
と、ここで、私は再び寝るのを諦め、noteを開く。
Twitterとは違って、私のnote上の時間は緩やかだからだ。
なんなら、寝る前とほぼ変わっていないくらいである。
だから、私はnoteでは、やみくもにフォローしないようにしている。
なぜなら、私にとってのnoteは、私の書きたいことを書く場であり、私が読みたい文章を読むところだと決めているからだ。
私にとってのnoteは、情報を簡潔に手に入れるための場でも、情報を選別する場でもないのだろう。
もちろん、知らないことを知る場でもあるのだが、情報を情報としてよりは、ひとつの考えとして受け取っていることの方が多いし、私にはnoteでの情報を選別できる能力がまだまだだと自覚しているからである。
でも、noteには、私のまだ知らない素敵な文章を書く方々や、素敵な考えを持っている方々、素敵なクリエイターの方々が沢山いることも知っている。
だったら、色々読んでみたら良いとも思うのだが、
図書館で、沢山の本の中から、一冊の本をちゃんと選ぶように、やっぱり私は選んでしまうのだ。
それでも、やや気まぐれ的に、奇をてらったタイトルの自己啓発本を立ち読みするように、たまには、新しいものに触れてみたりもすることもある。
と、そこで、問われるのは、私がそれを受け入れるかどうかの選択なのである。
ほんの数ページで怪しさに気づく自己啓発本なら、慌てて本棚に戻すだろう。
でも怪しくなかったら、奇をてらったタイトルに惹かれた自分に、何らかの意味があったのかもしれないと、少しは考え、読み進めるだろうと思うのだ。
例えば、「明日幸せになれる本」があったとして。
今の私なら、手に取ることを選ばないだろう。
でも、もし手にしてすぐに戻しても、「あー、私は幸せになりたいんだ」と気付くことができるし、最後まで読み進めても、本の内容に感化されてしまうか、拒絶してしまうかによっても、私は私を知ることが出来るし、そういう考えや本が存在するという事だけ受け入れれば良いのである。
でも、これは、私が奇をてらったタイトルの本に目が止まらないと起こり得ないことなのだ。
とはいえ、私は、沢山の本のある図書館で、わざわざ目を凝らしてまで、そんな本をさがそうとは思ってはいない。
なぜなら、私が図書館に行く理由を、大体いつも、持っているからだ。
以前にも書いたが、私はクランボルツの計画的偶発性理論が好きだ。
クランボルツ曰く、オープンマインドが重要だそうである。
でも、やっぱり全てにたいしては難しいし、全てに対してする必要はないと思うのだ。
だからこそ、いつ、どこで、何に、オープンマインドするかを自分で決めたり、選択することが、とても重要なのだ。
だから、私は、noteに対しては、無人駅の1つの改札口から出入りするような、そんな感じでいたいと思っている。
大切なのは、無人駅でも、終着駅まで、そして終着駅から津々浦々へと繋がっていることを知っているかどうか。
知っていれば、いつでも、電車に乗れるし、乗り換えがあっても、動じないと思うからだ。
ちなみに、私にとってのTwitterは、最近では山手線みたいだ。
その心は…。
書くのが、あまりにも野暮ったいので、止めとこう 笑。
最後に、なぜこんなことを書いたかというと、いつも拝読している方のnoteを読んで、考えさせてもらったから。
その方に読んでいただける事はないと思うけど、テーマを下さった事に感謝します。