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内向的人間の抵抗。

人は、大きく分けて、外向的人間と内向的人間の2つのどちらかのタイプに当てはまるそうだ。

そして、外向的人間が良いとされ、内向的人間はなかなか認めてもらえないという世知辛い世の中。

内向的人間は、子供の頃から、外向的な人間にならなければならないという教育や圧力と日々闘い続けているのである。

そして、そうこうしているうちに、内向的人間は、外向的隠れ蓑を手に入れる者、外向的に身を売る者、内向的だと開き直る者、外向的とハーフ&ハーフになる者へと変貌したりしなかったりするのである。

ちなみに、私は、というと典型的な内向的人間である。
でも、頑張れば外向的を出せる、いわゆる、ひょっこりはん型である。疲れたら、休んで、また出る、出番の少ないひょっこりはんだ。

内向的人間は、こっそりと外向的人間と距離を置き、
嫌な事があれば、誰にも告げずに、スーっとその場を去りがちである。

始めから、外向的人間に理解をしてもらう事を期待してないし、なんなら、外向的人間に憧れを抱いていたりする場合も多い。

そして、例え自分は相手に理解されなくても、自分は外向的人間を理解しよう、理解できないのは、理解できない自分に問題があるのかもしれないと、考えることが出来るのが、内向的人間なのだと私は考えている。

では、外向的人間の場合は、どうだろうか?

私の抱く外向的人間のイメージは

やたらと握手やハイタッチをしたがる。
やたら、電話をかけてくる。
やたら、励ましたがる。
そっとすることを知らない  

などである。

やたらが多いが、これらが、私の外向的人間に対する偏見である。

もちろん、偏見は良くないが。
でも多少は当てはまっているのではないかと思う。

先日、何かの本で読んだのだが…。

悩みがあるとき、内向的人間は、一人で考えるために、一人になりたがり、外向的人間は、誰かに相談したり、発散したくなるそうだ。

納得である。

私も、悩んでいるときは、ひとりでゆっくり考えたいので、
人に会うのは、ある程度、自分の気持ちが定まってからだ。

流れ的には…。

どうしよう。
  ↓
ひとりで考える
  ↓
とりあえず選択肢をいくつかあげる。なんとなくどれにするか決める
  ↓
人に相談する
  ↓
ひとりで考える
  ↓
決断する

見ての通り、人に相談するのは、大分あとなのだ。

ちなみに、発散する事は、この先、あるかどうか微妙なところである 笑。

と、ここまで書いて、内向的って、ちょっと面倒くさいなと思ってしまった。

とはいえ、ガイコーテキ(外向的)100パーセントの人も、居ないのは分かっている。
となると、ナイコーテキ(内向的)100パーセントの人も居ないのだろう。

誰しも、この二つの間をいったり来たりしながら、うまくやっているのだろう。

ただ、拠点がどっちにあるかの違いなのかもしれない。

でも、ちょっと悔しいのは、内向的人間が外向的人間を理解しようとしてるのに、外向的人間はあまり、そうしようとしていないところである。
内向的人間が理解できなくても、外向的人間には、ノーダメージなのだ。むしろ、内向的人間のせいにしたりする。

あー、やっぱり羨ましい。

内向的人間は、損なのかもしれない。

でも、内向的な部分がないと、文章を書こうと思わないかもしれないと考えると、嫌いにはなれないのである。

いつか、内向的人間の逆襲があるかもしれない。
もぐらたたきのもぐらが武器を持つ日が来たら、おもしろそうだ。

ただ、叩かれから、巣穴に戻るけど 笑。

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