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カーテンにくるまって。
先日、初のカプセルホテルに泊まった際、
実は、私には、もうひとつ挑戦したいことがあった。
それは、牛丼屋さんで朝定食を食べることだ。
大学に行く前に寄ろうかと、お店の前まで行ってはみたものの、男性ばかりの店内を覗いてびびってしまい、結局諦めてしまったのだ。
どうやら、私にとって牛丼屋さんに一人で入ることが、一人で海外に行くよりもずっと勇気がいることらしい。
函館で、一人ジンギスカンにも平気で行ったのに。
我ながら、面倒な人だと再認識させられてしまったのだ 笑。
でも、またいつでも挑戦できるし、
いつかまた、リベンジしてみようかと思っている。
とここで、変に勇気を出して、書くが、私には他にも、勇気が必要なことがある。
例えば、混んでいるファミレスで呼び出しボタンを押すこと。
例えば、タッチパネルがない回転ずし屋で、注文すること。
例えば、店内に入ると話し掛けてくる店員さんがいる洋服屋さんに入って、試着すること。
例えば、カウンセリング化粧品を、お化粧してもらいながら、じっくりと選ぶこと。
などである。
我ながら、面倒な人を通り越して、変な人だと思っている。
でも、頑張って挑戦してみても、疲れ果ててしまうか、自己嫌悪に陥ることが多いのが悲しい現実なのだ。
まぁ、仕事なら全然平気だし、一人じゃなければ、もちろん余裕なのだが。
が、そんな私に共感してくれる人に、今まで会ったことがない。
今まで人に言ったこともないから、当たり前なのだが 笑。
逆に、友人に共感されても、悲しいだけかもしれない。
そういえば先日、学生の頃、授業を受けずに、カーテンと窓の間の席に座り、窓から外ばかり見ていたという人に会った。
私は小学生の頃、カーテンにくるまるのが好きな時期があったので、なんだかちょっとだけ分かるような気がしたのである。
まぁ、理由も意味もちがうのだけど。
でも、なんだか、その人の気持ちが、少しだが分かるような気がしたのだ。
そして、その人はこうも言っていたのだ。
「自分探しの旅では、自分は見つからない」と。
これは、自分探しの旅に出たことのある人が言わないと、あまりにも嘘臭く、何にもどこにも響かない言葉である。
だが、私にも言えることがある。
「自分探しの旅では、自分は見つからないが、自分を作る材料は見つけられるだろう」と。
話はカーテンに戻るが、カーテンの話におけるカーテンの意味の共通点は、きっと現実逃避と自己防衛だろう。
でも、その人は、カーテンの埃臭さや、カーテンの中の非現実感を知らないかもしれない。
なぜなら、私は、カーテンに遮断され、守られながらも、孤独感や焦燥感にかられながらみる景色が、どんなものだったのか分からないからだ。
もし、また会う機会があったら、是非聞いてみたいと思っている。
カーテンが風で揺れる時、なんかちょっと嬉しくなかった?と。
もちろん、今の私には、あの埃臭いカーテンにくるまれたいという願望はない 笑。