私は、根っからの「レジスタンス」であると気付いた件
これは自己紹介的な文章になります。
近年、といってもかれこれ、ここ5~6年ですが、ずっと啓蒙的な側面から「ティール組織」を広げる活動をやってきて、自分もつくづく「レジスタンス」だなぁと感じる時があります。ティールといえば、自然主義的で生命論的な側面があると同時に、反ヒエラルキー、反権威主義、反封建的体制に裏打ちされた人間性の解放というフィロソフィーがその根底に強く流れています。それをご存知の方は、私の言う「レジスタンス」という意味がよくご理解いただけると思います。
『失敗の本質』という、旧日本軍の組織としての意思決定の間違いから敗戦へと至った、その失敗の本質を学ぶための本があります。組織開発の観点で仲間たちとその本の読書会をやっているのですが、学びを深めるために、家で一人で、Amazonプライムにある1945年作成のアメリカの国策映画を見ていました。その映画のナレーションによると、「ドイツはナチス党に牛耳られ、・・・」とありました。それは分かります。それで、日本はというと、「黒龍会という右翼団体に乗っ取られ、民主主義を捨てたのです」と説明していたのです。これにはびっくりしました。アメリカが当時、日本をそのように見ていてとは。そして、その情報をもって、国民を教育しようとしていたとは!意外というよりも、それは、考えも及ばない次元の出来事でした。
ただし、その見方は一理あります。昭和に入り、世界恐慌が昭和恐慌となって、日本経済を襲い、特に地方では餓死者が出たり、子女の身売りが相次いだりしました。大正デモクラシーを経て、ハイカラな都市生活者と農村部で暮らす人たちとでは生活習慣や価値観などに大きな開きが出てきていました。また、自由主義的な資本主義の成熟によって、貧富の差も今の時代とは比べ物にならないくらい広がっていました。片や、昭和15年には、神武天皇の即位から2600年目を祝う、「紀元二千六百年記念行事」という国を挙げての一大イベントが行われました。日本という国の「光」と、生活苦という「闇」との対照がこれほど鮮明な時代もありませんでした。天皇陛下という「光」はまぶしく輝いているのに、自分たちの暮らしが一向に良くならないのは、天皇の周りにいる政治家や資本家が、本来自分たちが預かる分け前もすべてを奪い取っているからだという発想に、国民の多くが行きついたことに不思議はありません。
・濱口雄幸首相狙撃事件
・三月事件
・十月事件
・血盟団事件
昭和に入って政府・財界の要人を襲うテロが頻発するようになりました。玄洋社や黒龍会といった右翼団体、国柱会などの宗教団体が、昭和維新と号し、なんの罪もないこれらの人たちを襲撃していったのです。そして、その流れは、軍にまでおよび、五・一五事件や二・二六事件といった政党政治を終わらせるためのクーデターにつながっていきました。
当時の昭和天皇の手記を読むと、もし日米開戦に踏み切らず、外交によって、日本が英米らの提示する屈辱的な条件を受け入れていたら、確実に革命かクーデターが起こり、日本は内乱状態になっていたであろうと書かれています。当時、政府も軍もアメリカとは戦いたいとは思っていませんでした。国力が違い過ぎるからです。中国との戦争をどうやって終わらせるかに腐心し、アメリカとも水面下で調停交渉を続けていたことが最近になって知られるようになりました。しかし、松岡洋右外相が中心となり、自由主義の永遠の敵であるナチスドイツと同盟を結んでしまったばかりに、アメリカやイギリスからは経済制裁を受けるようになりました。オランダのロイヤルダッチから石油取引を断られ、アメリカからは石油の全面輸出禁止をくらいました。その段階で、世界第2位の海軍国といっても、半年後には戦艦の一つも動かせない状態に追い込まれたのです。明治以来、血によって獲得してきたアジア・太平洋の権益をすべて放棄する以外には、中国に続く、英・米・蘭との戦争は避けられなくなったのです。
一方国民も、戦時下の統制によって、物品は次々に配給制になり、都市生活者に至っても、ゆとりはなく、その生活は完全に干上がっていました。蒋介石率いる国民政府を裏で支援していたのはイギリスとアメリカだということは皆知っていましたので、英・米との開戦は望むところでした。真珠湾攻撃によってどれだけの国民が歓喜したか、多くの記録が残っています。
それで、アメリカ・イギリスと戦争をしなければ、本当に革命やクーデターが起こっていたのかということについては、検証はしなければなりません。
二・二六事件を起こした青年将校らの多くは農村部の出身で、家族はひもじい思いをし、身売りなどに耐えていたことが知られています。むしろこれは事件後明らかになり、多くの国民の同情を引きました。昭和11年(1936年)陸軍の皇道派と呼ばれる青年将校たちは、自部隊を率い、首都東京の主要施設を占拠し、政府要人や財界人の私邸を次々に襲いました。陸軍中枢の一部にも彼ら決起将校たちに同情的な声もあり、事態の収拾に向けてなかなか具体的な方策を出せないでいました。その一方で海軍の動きはとても素早いものでした。陸軍の動きを傍受していた海軍はあらかじめクーデターの動きを察知していました(諜報活動を仕掛け、無線を傍受するなど、その時点で敵扱いですが)。首都が襲われたという一報が入ると、戦艦長門を旗艦とする艦隊が東京湾に集結しました。海軍陸戦隊は都内各所に上陸し、臨戦態勢を整えました。そして、戦艦長門の主砲は国会議事堂に向けて照準が定められました。その時の海軍の人がのちにNHKのインタビューで語っていました。「長門の主砲一発で千代田区一つが丸ごと吹っ飛ぶ」
陸軍が仮にもクーデター軍に組みする動きを見せたら、東京はひとたまりもなく壊滅していたということです。そのような事態を知ってか知らずか、昭和天皇は「朕が最も信頼せる老臣を悉く倒すは、真綿にて、朕が首を締むるに等しき行為なり」と言って、反乱将校たちに向かって、大変な怒りの態度を示されました。さらに、近衛兵を率いて、自ら鎮圧に赴くとまで発言されたと言います。これを聞いては陸軍中枢もたまったものではありません。すぐに鎮圧に向けて動き出しました。こうして、寸前のところで内乱は回避されたのです。
こういうことがあったということは、国内で同じ民族同士が戦うよりも、外で共通の敵と戦った方がましという判断になってくるのは、ある意味仕方ないと思います。次は誰がテロの標的になるか分かりません。次は誰がクーデターを企画しているかも分かりません。この状態をアメリカ政府は、「日本は特定の政治団体に支配されてしまった」という表現でアメリカ国民に訴えたのです。確かに、分からないことではありません。
明治から大正にかけて活躍した活動家に宮崎滔天(とうてん)という人がいます。その著書『三十三年之夢』を読んだとき、私は、10代の頃、滔天のような「大陸浪人」につくづく憧れていたな、ということを思い出しました。
「大陸浪人」といわれてもピンとこない方が大半だと思います。以下にウィキペディアの内容を記載します。
この説明でも訳が分からないと思います。補足しますと、彼らの大半は、元々自由民権家であったということです。佐賀の乱、西南の役といった大規模な士族の反乱の後、生き残った士族らは、武力による闘争から言論へと武器を変え、民主化に向けた運動を起こしました。徳川幕府から明治政府へ政権が変わりましたが、庶民からしてみれば、税は重くなったし、兵役には取られるわで、何一つよくなったことがないというのが現実でした。元々公家や大名といった貴族のみによって運営される政治ではなく、広く国民が政治に関われるように政府に求めたのが自由民権運動です。板垣退助らによる「民撰議院設立建白書」を契機として運動は全国に広がり、自由党、立憲改進党、愛国党、玄洋社といった政治団体が次々と結成されていきました。そして、明治23年(1890年)に第1回帝国議会が開かれた後は、目的を達成した彼らの一部はアジアへと活動の場を広げていきました。
当時のアジアといえば、そのほとんどの地域が西洋の帝国主義の植民地と化していました。ヨーロッパに行こうと、一歩日本から外に出たら、そこからは、アジア人がヨーロッパ人の下で奴隷としての扱いを受けていない地域はひとつもありませんでした。自由民権家の多くはこの状況を知って、なぜアジア人がヨーロッパ人に隷属しなければいけないのか、そして、なぜ、唯一日本人だけがロシア(日露戦争)やドイツ(第一次世界大戦)と戦い、自由を勝ち取ることができたのかを考えました。そして、彼らが至った結論というのが、アジア地域に残る封建制がその隷属の原因というものでした。日本は徳川幕府という古い封建体制を自らの手で滅ぼし、開国したからこそ今の地位を得た。閉鎖的で官僚主義のはびこる現体制のままずっと隷属が続くと、やがて民族というアイデンティティまで失われてしまう。そのためには、すぐに封建国家を倒し、新しい体制のもとで開国し、自由貿易の奨励と不平等条約を撤廃していくこと以外にアジア解放の道はないとしたのです。その古い体制に対する各国のレジスタンスの多くは日本に集まってきていました。李氏朝鮮を倒そうとした金玉均。清朝を倒そうとした孫文。イギリスから独立を勝ち取ろうとするボーズ。そして、日本には来なくとも、アジア各地には、インドネシアのスカルノ、ビルマのアウンサンらがいて、現地政府の転覆を企てていました。そして、自由民権家の一部は、「大陸浪人」となって、アジア各国に潜伏し、諜報活動を行い、革命の手助けをしたのです。
宮崎滔天の『三十三年之夢』では、何度も蜂起に失敗し、そのタイミングがつかめず弱気になる孫文を、滔天が奮い立たせようとするシーンがあります。そこで二人は互いに涙を流しながら心の内をぶつけ合います。とても感動的な場面です。『三十三年之夢』は中国語に翻訳され、それを読んだ若者の多くが孫文の革命に参加したと言います。
アヘン戦争に負け、欧米列強によってバラバラにされてしまった中国に、もはや国家という概念はなかったと言います。滔天は中国各地域のリーダーを東京の孫文の元に集め、一つの国を作らせようとします。そして、孫文らは、アメリカ合衆国をモデルにして、中華民国、つまり「中国」の構想を練り上げていきます。「中国」という国家は東京で誕生したと言っても過言ではないのです。
滔天の中学時代の記述に興味深いものがあります。先生が、将来何になりたいかと聞いた際、生徒の多くは、官史になりたい、国の立派な役人になりたいなどと言いました。しかし滔天は、それらのものは「賊」だと思っていました。蔑視の対象であったのです。それで滔天は、自分は生まれつきの自由民権家だと、自らの運命に気付きます。
滔天は幼少から、母親に、「豪傑になれ、大将になれ」と言って育てられました。そして、「兄様のようになりなさい」とも言われ続けてきました。兄様とは、西郷隆盛に味方して政府軍と戦い、亡くなった長兄の八郎のことを指します。ですので、宮崎家では、官軍とか官史という「官」が付くものはすべて、盗賊であって、敵であったのです。
と、ここまで、自由民権運動=レジスタンス=極右政治団体=テロリスト・クーデター指導者、という図式がつながるように書いてきました。自由民権運動というのは保守的な国家に対する民主化運動、中立かどちらかというと左翼的な運動であるはずなのにおかしいと思われた方もいらっしゃると思います。当時の日本は「一君万民」ですから、天皇陛下の元に国民は皆平等というのが自由民権家の思想です。資本主義における貧富の差の拡大には拒否的な姿勢を示すため、彼らは社会主義的な民主主義・自由主義というスタンスを取りました。極端な国家社会主義のことをファシズムと呼びます。自由民権運動の思想は社会主義的であるがゆえにファシズムとも結び付きやすかったともいえます。
ですので、大陸浪人は、自由主義者でありながら、その大半は軍か右翼団体の出身者で占められていました。いや、正しくは、天皇をたたえながらも、金にものを言わせる資本主義には否定的で、そして、その本質は「自由人」であったというのがよいのかもしれません。日本軍のスパイとして、アジア各地において、現地人になりすまし、諜報活動をする者もいれば、満州に行き、馬賊と呼ばれる地域の軍事リーダーになって名を馳せた人もいます。彼らの思想や行動も、一つの定義で縛ることはできません。
明治維新のガラガラポンからは40年も50年もあとに生まれてきた人たちです。自分の生まれた時代が遅すぎたと悔やんだことでしょう。そして、生まれつつある新生中国や、ヨーロッパからの独立運動が盛んな東アジアに、自らの夢を託して乗り込んでいったのです。
いま、世界中で組織のあり方が大きく変わろうとしています。いままでの産業を牽引してきた機械論的な階層主義ではもう限界が来ているのです。社会の隅々に、もうその答えは出ています。そういうこともあって、階層体系の崩壊を願う私は、ますますもって「レジスタンス」なのだと思います。
※タイトルの画像は、満州の赤い夕陽をイメージ