見出し画像

ネガティブ・ケイパビリティを考えるヒント③ ~アイデンティティーとは~

ワークショップとかで使う、価値観カードやバリューカードなるアイテムがある。数十枚のカードから自分の価値観に合うカードを3枚とか選び、テーブルに並べる。十数人でやってみると分かるが、必ずといってよいほど、選んだカードが同じという人がいる。
 
「うわー、○○さん、選んだカード、おんなじですね。私たち、価値観が近い!?気が合うのかなー」
 
などと言って、近寄ってくるおっさんがいる。どこの誰とも知らないおじさんに価値観が同じと言われても、嬉しいはずがない。キモい。そのイラっと来たものを発したのがアイデンティティーである。
 
これを仮に1万人でやったとしたら、カードは100枚使ったとして、ベスト5を選んだとしても、確率的には必ず一致する人がいる(≒25人)。100枚の内、選んだ5枚とも一致するとなったら、相当に価値観が近いことは否定できない。生まれ育った環境も何も、まったく共有できるものがないはずなのに。
 
となると価値観はパターン、一種の類型ではないかということになってくる。ショーウインドウに並んでいるアイテムを一つずつ取ってきて、着飾って、それで、隣を見たら、まったく同じ、被りましたねー、ということが起こりうる。
 
自分自身のオリジナルであり、かけがえのないものだと思っているものは、すべて外から持ってきたものの集まりということでいいのだろうか?それを自分自身の固有のものと思わせている感覚、つまり、アイデンティティーとは、単なる錯覚だろうか。
 
この仮説が成り立つのなら、そういう価値観のような外的な無意識と結びつくのは、その人の海馬やDNAの中にある記憶であると思う。
 
日本にはお盆という風習があって、亡くなった人の魂は、毎年8月のある日に家族の元に帰ってくるという。随分、独りよがりな風習だと思わないだろうか?亡くなった人は、生きている人たちが決めた日に、わざわざ帰ってこなければならない。選択権も何もない。
 
ある人に聞いた。「みんなそうやって生きてきたからだよ」
 
なるほど!そのルールを作ったのは、何億、何十億というこれまでに生きてきた人の方だった。彼らも、8月のある日に先祖が帰ってくることを信じて生きていたんだ。
 
これが先祖の記憶であり、きっと私たちからみた、未来人の記憶でもある。
 
ただ単にその人が生まれてから経験したことだけではなく、そういった長い長い記憶が価値観と呼ばれるような集合的無意識と結びつき、自分自身の生きている証明となる。つまり、アイデンティティーとなる。
 
いずれにしても、価値観を知りたければ、感情などを掘り返して、自分の中に探しに行くよりも、小説など、外の力を借りたり、他人と共通のものを見つけて自分にリフレクトしたりする方が賢明なような気がする。

最後まで読んでいただいて、どうもありがとうございました。