
『誰もいない文学館』に関する私的小話
西村賢太著『誰もいない文学館』がAmazonより届いた。これに関しては少し思い入れがある。自分語りによってXでの連投ポストになりそうなためnoteアカウント開設の理由に基づきnote記事にする。
この本を初めて見つけたのは、たしか2023年のある夏の日に1人で行ったショッピングモール内の本屋である。当時すでに西村賢太先生の作品にハマっていて先生の私小説を図書館で借りて何冊か読み込んでいた頃である。
どうして覚えているかというと、その日は当時交際していた女の誕生日プレゼントを買うためにそのショッピングモールにいたのだ。そしてそのショッピングモールは、その女と付き合うことになった2021年のある日に一緒に行っていた、いわば思い出の場所である。
誕生日に何が欲しいかあらかじめ聞いていたが「くれるものならなんでも嬉しい」と曖昧な答えを聞かされて、根がどこまでも温厚篤実な私に対して憤怒の火山活動を水面下、否地面下で呼び起こすことをその女は平然と言ってのけたのだ。と同時に、どこぞのブランドのバッグがいい、だの、どこぞのアクセサリーがいい、だの言わないこの女を一層愛しく思えてしまったのもまた事実であり、私がいま励んでいることを大成して苦労をかけさせているこの女を糟糠の妻たらしめんと思わずにはいられなかった。
仕方なくプレゼントでいいものはないか探している途中で本屋に立ち寄った。そして作家の名字の頭文字が「に」の欄を探っていたときに見つけたのがこの本である。
当時の私は、定職に就いてない日雇い人足であり、根が大の労働嫌いにできていて体力のない私は毎日勤務するわけでもなく、かつ得られる賃金はただでさえ少ないのにも関わらず交際費や当時合格を目指していた難関国家資格の教材費等に充てていて黄白に余裕なぞなかった。
当然、優先順位として新刊の購入など後回しであり、はな新刊の購入費用に充てられる黄白は全くなかった。
そのため流し読みによる立ち読みで済ませた。冒頭で、書き手の読書量について述べていて西村先生は自身のそれを「ワーストクラス」と表現しており、近代日本文学に造詣の深い先生をしてワーストクラスならば他の第一線で活躍する作家はどれほどの読書量たるか一寸考えたのを覚えている。
本を閉じ、プレゼントを探しに店巡りを再開した(なおその後プレゼントは購め、後日女と昼食を摂った後に赴いた風営法を根拠法とする旅客施設の一室で渡したのである)。
この3ヶ月後にその女と別れることになるのだが、別れの日に誕生日プレゼントについて激しく貶されたのである(誕生日プレゼントが別れの直接の原因となったわけではないが、別れを決意させるに至った遠因の一つであったと思う)。
結句、自分の言葉に責任を持たないこの女に言い知れぬ不快感を覚えたため、別れることを了承した(そうは言っても尚、その不快感を上回る愛おしさを捨てきれないのが、別れると決めた途端悪魔よりも冷酷になる女と違う、男の哀しい性である)。
その後、難関国家資格の受験は断念して別の国家資格を一年かけて複数取得して定職に就き、定収入を得て黄白に余裕が出きた。そしてこの本は書店に置かれていることはすでになく、Amazonにて在庫が残り僅かであったが無事購めることができたのである。