近代看護の確立者・ナイチンゲール
フローレンス・ナイチンゲール(1820~1910)
ナイチンゲールは、クリミア戦争で傷病兵のために献身して名を上げ、看護師という職業のイメージを高揚させた英国女性です。
ナイチンゲールは、上流階級の生まれです。
最高の教育を与えられ、社交界デビューも果たしたナイチンゲールでしたが、彼女がやりたかったのは豪邸に人を招いて舞踏会を開くことではなく、それを病院にし、病棟の構成やベッドの配置をどうするかということでした。
25歳の時ナイチンゲールが「病院で看護の仕事に就きたい」と告げた時、家族は猛反対しました。
今では考えられないことですが、当時の人々にとっての看護師とは、知性や品性のかけらも感じられないような、社会的身分の低い仕事だと見なされていたのです。
それでも彼女は看護師として働く夢を諦めきれず、31歳の時にドイツへの留学を果たし、看護の訓練を受けました。
ナイチンゲールが33歳の時、ロシアとオスマン帝国のあいだでクリミア戦争が勃発しました。
戦地では、医師や看護師が極端に不足していました。
新聞でそのことを知ったナイチンゲールはすぐさま「戦地において兵士たちの看護にあたりたい」と戦時大臣に手紙を送ります。
ナイチンゲールの才能を知っていた戦時大臣は、彼女を看護婦人団の団長に決定しました。
ナイチンゲールが戦場で見たもの
1854年の晩秋、ナイチンゲールは戦地の病院に赴任しました。
しかし実際には病院とは名ばかりの、床が腐り、ごみや汚れた衣類が散在しているばかりでなく、ロシア兵の死体さえ放置されていた、あまりに不衛生な兵舎でした。
さらに医療用や薬品、寝具、兵士たちの食料も不足し、石鹸、食器、タオルといった日用品まで不足している有様でした。
イギリス軍のいい加減な兵站と楽観的な見込みで用意された医療物資は早期に使い尽くされ、運ばれてくる兵士達は次々と床に並べられるという惨状でした。
ナイチンゲールは事前に軍から聞いていた能天気な情報を全く信用していませんでした。彼女は兵舎に向かう途中で、くず粉、ぶどう酒、携帯用コンロなどを購入していました。しかしこれらの物資を使う許可が下りませんでした。軍部は「物資は足りている」と言った自分たちの体面を気にしたのです。
ナイチンゲールは食材やワインを買い込み、傷病兵に特別食をつくり、食べさせました。これにも軍は規約違反として圧力をかけましたが、ナイチンゲールは頑として抵抗し、絶対に承服しませんでした。
ナイチンゲールは戦地の病院で、不眠不休ともいえる熱心さで患者たちの看護にあたりました。
あたりが真っ暗になった深夜、糞便や血液にまみれた床と、かびや地下水の悪臭に満ちた空気の中、ランプを掲げて病棟の患者一人一人を見回りました。
統計学者としてのナイチンゲール
戦場の兵士たちは、戦闘による負傷によって亡くなるのではなく、劣悪な環境での感染症によって亡くなるのだということにナイチンゲールは心を痛めました。
二度とこのようなことがあってはいけない、そのような思いを抱いていたのはナイチンゲール一人だけでした。
政府や陸軍当局は戦争が終わっても一切の反省をせず、何もかも忘れようという空気が充満していました。
軍事病院の衛生問題をめぐって、軍部を敵にまわして闘い、軍部の欺瞞に対して真実をはっきり世の中に知らしめることが彼女の使命でした。
しかし「戦地の衛生状態を改善してほしい」「あなたたちは兵士を無駄な死においやっている」と普通に訴えたところで聞き入れてもらえないことを彼女は理解していました。
そこで、ナイチンゲールが使った武器が、看護師の道に進む以前、ずっと学んできた数学や統計学でした。
ナイチンゲールは、クリミア戦争における戦死者たちの死因を「感染症」「負傷」「その他」の3つに分類し、それぞれの数を月別に集計しました。
当時はまだ折れ線グラフや棒グラフが一般に広まっていませんでした。
そこで彼女が考案したのが「鶏頭図(コウモリの翼)」という独自のグラフです。死因別の死者数を一目でわかるようにビジュアル化しました。
資料づくりは精緻を極めました。戦時に現地で実施された調査の結果のすべてを多面的に照合し、数字にものを言わせる資料と企画書を作成しました。
こうしてナイチンゲールは、ヴィクトリア女王が直轄する委員会に1000ページ近くにも及ぶ報告書を提出しました。
その後ヴィクトリア女王は何度もナイチンゲールと会って、改革の話を詰めました。
その結果、戦場や市民生活における衛生管理の重要性が知れ渡り、看護師という仕事が再評価され、感染症の予防にも大きく貢献していくことになりました。
参考文献
瀧本哲史「ミライの授業」
徳永 哲「戦うナイチンゲール 貧困・疫病・因襲的社会の中で」
小玉香津子「ナイチンゲール」
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