フランスに生涯をささげた少女 ジャンヌ・ダルク
ジャンヌ・ダルクの生涯
ジャンヌ・ダルクは1412年ごろ、
フランスの東部に位置するドンレミ村に生まれました。
ジャンヌが初めて神からの「声」を聞いたのは13歳のころ。
「フランスへ行き、オルレアンを解放せよ」
ジャンヌはこの声を神のお告げと信じ、
声の通りに行動することを決心しました。
王太子シャルルの義母の協力もあり、
ジャンヌは王宮に呼ばれました。
そこで王太子シャルルはジャンヌを試すべく、
身代わりを立てて自分は群衆の中に紛れることにしました。
しかしジャンヌは偽物を見抜き、
群衆の中から王太子シャルルを見つけてみせます。
これはジャンヌの奇跡を示す言い伝えの一つとして語られます。
オルレアンの戦いから焚刑まで
「ジャンヌは神の使者である」という噂は、
フランス軍の精神面に影響を与えました。
ジャンヌは自ら戦闘の最前線に立ち、胸に矢を受けながらも、
神聖な旗を掲げて兵を鼓舞し続けました。
そしてついにオルレアンは解放されました。
とはいえ、戦争で勝つためには、十分な兵力と緻密な戦略が必要です。
神の恩寵だけに頼って戦争をすると負ける可能性が高いことは
歴史が証明しています。
ジャンヌは優れたモチベーターであり、
これが戦略とうまく絡まり合ったオルレアンでは勝利しました。
オルレアンの戦いは、フランス軍が包囲され、イングランド軍が都市を攻めた戦いです。
都市は分厚い城壁に囲まれ、正面突破することは容易ではありません。
おまけにイングランド軍の包囲には穴があり、フランス軍は包囲網をかいくぐって補給をすることが可能でした。
フランス軍はオルレアンの戦いを重視しており、兵を都市に集中させていました。
以上のような条件が重なり、ジャンヌ・ダルクという存在を抜きにしても、フランス軍の方が有利な条件が揃っていました。
これに対し、パリ攻城戦ではフランス軍とイングランド軍の立場が逆転しました。
今度はフランス軍が城壁で囲まれた都市を攻める形になりました。
パリ攻めの準備は万全ではなく、オルレアンの戦いの時のように兵を集結させた戦いではありませんでした。
確かにフランス軍には神の使徒であるジャンヌ・ダルクがおり、フランス軍兵士の士気は高かったはずですが、奇跡は起きませんでした。
パリ攻めは負けるべくして負けた戦いでした。
その後、ジャンヌはパリ近郊でブルゴーニュ軍の捕虜となります。
ブルゴーニュ派はジャンヌを身代金と引きかえにイングランド軍に売り渡し、1431年の異端裁判の末、ジャンヌは焚刑に処せられました。
英雄としてのジャンヌ像
英雄としてのジャンヌ・ダルク像は、
近代以降、徐々に形作られていったものです。
ジャンヌ・ダルクの存在を、
フランス人の記憶の中に呼び起こしたのはナポレオンであったとされます。
「自分はジャンヌと同じ、フランスの救世主である」
とし、自らの偉大性を人々にアピールしました。
また19世紀に生まれた「国民国家」の発生と結びついて、
ジャンヌは神話化されていきました。
ジャンヌ・ダルクはフランス国民意識を喚起する象徴的存在へと昇華され、ジャンヌを題材とした多くの絵画や彫刻が作られるようになりました。
参考文献
上田 耕造 著「ジャンヌ・ダルク ―フランスに生涯をささげた少女―」
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