孤立する「√群れ」の存在 イジメは群れ理論
イジメは群れ、イジメるとは群がること。
1、群れの問題
「イジメ」を「群れ」だと置き換えた場合、
「イジメ」とは言わば「人の群れ」のことであり、
つまりは「人間」そのもののことを指しているものである。
そして「イジメ“問題”」とは「人間(関係)の“問題”」であり、人間関係の齟齬や対人関係の拙さなどが主な原因となって起こり得る問題である。
・“群れ”ならざる者
このような発想を基点にしてこの問題を紐解くと、“イジメ”問題を最も「起こさない」可能性が高いのは、孤立している「(個)人」の存在である。
何故ならば彼らはそもそもの人間関係が構築出来ていないのだから、原理的に誰かをイジメようが無いのである(イジメる=群がる)。
またこれを逆から捉えると、「(個)人」が新たな人間関係の構築を求める場合にイジメ問題が「起きやすい」ということも意味している。
SNS上のトラブルなどがこの最たるものである。
さらにイジメ問題を「起こされやすい」のもまた孤立した「(個)人」の存在であり、常に一人でいるような状態は、集団内で最も「群がられやすい」=「イジメられやすい」状態も示している。
この「群れ」ならざる者、
「√群れ」=“人間”未満の「(個)人」の存在からイジメ問題を紐解いてみるのが今回のテーマである。
2、√群れの存在
「(個)人」=「√群れ」=「√イジメ」
群れならざる者は、イジメならざる者なり。
イジメを群れ、イジメることを群がることだとして考えた場合、「√群れ=(個)人」が孤立した状態でいることは、最もイジメられるリスクが高い状態にあると言える。
集団の中で1人(√群れ)でいる状態と、既に友人がいて2人以上でいる状態(群れ)では、明らかに1人でいる状態の方が“群がられ”やすい、加害者の接近を許しやすい側面があることは言わずもがなである。
そしてこのようなリスクを避けるためにも人(√群れ)は仲間を求めるものだと思うが、それは同時に他の集団(群れ)や人(√群れ)との接近も意味するジレンマを持っている。
要するに、人(√群れ)はイジメ(群れ=人間)を避けられないものなのである。
・√群れそれぞれのアプローチ
もしも生来的に人との触れ合いが好きなタイプであれば孤立した状態(√群れ)に陥り難く、反対に人嫌いであれば良くも悪くも孤独な状態(√群れ)を選ぶのも苦ではないだろう。
また仮にそこでイジメ問題(人間関係の齟齬)が生じてしまったとしても、人が好きなら別のアプローチ方法を学ぶことで関係性の変化を目指すことが可能であり、人嫌いであっても戦うか別の場所に離れていくなどを選べれば、イジメ(人間関係)自体が人生を大きく左右するようなことは避けられる可能性が出てくる。
しかしここで問題になるのは、人や人間関係の構築や維持が苦手なタイプの「√群れ」である。
彼ら(√群れ)は頭の中では周りと仲良くしたいと願っても、具体的にはどのように立ち回れば良いかが分からないので、トラブルを起こすか孤立するかの2択に陥りがちになる。
それこそ他者とどう寄り添えば良いか分からないから、無駄に群れを作りたがる、強引に群れになりたがるような性質の者もいるだろう。
その結果として起きてくる問題こそが、イジメ問題(人間関係の齟齬)ということになる。
ある人(√群れ)は孤立する不安を避けようとするあまり他者を陥れることを選び、またある人は拙い群がり運営の結果として他者を傷付けてしまうことに至る。
それを避けるには様々な触れ合い方を学ぶしか道はないのだ。
3、√群れ^2
√群れ×√群れ=群れ=イジメ
「√群れ」×「√群れ」、
「人」と「人」との関わり合いが「群れ=イジメ」になるのである。
巷では子供の抱えるイジメ問題を見逃すような大人も多いものだが、これは何も珍しい光景ではない。古い時代の教えなどが災いし、何か常識に反した「行為」を観測しようとしてしまうからである。
イジメとは、常に目の前に存在し続ける人と人との関わり合いだと認識しておけば、起こるとか起こらないとかいう次元の問題ではないことが分かるはずだ。
それ故に人(√群れ)がある程度イジメ(群れ)に振り回されることもまた自然なことである。
しかしだからといって加害“行為”が起こるまで放っておくのは監督する側にも問題があることも分かるだろう。
それこそ学校で起きた“イジメ”において、問題を見逃してしまった教師が「仲良くしていると思った」といった旨の発言をすることがあるが、これもイジメ問題を人間関係の齟齬だと考えてみれば読み解けるものである。
いわゆる友人が多いタイプとは違い、普段から孤立しがちな人(√群れ)の周りに人が集まっているような状況は、傍目から見たら「あの子にもようやく友達が出来たか」と映ってもおかしくはない性質を孕んでいるのだから。
・“√群れ^2”を行為だと思うなかれ
特にイジメを「行為」として捉えているタイプが教師や親ならば、加害「行為」に及んでしまうまで、怪我をするような段階に至るまで、問題を感知できない可能性があるので警戒しておくことをお勧めする。
またいわゆるの加害者に陥ってしまう存在もイジメを「行為」であると認識している可能性があり、加害「行為」はしておらず、その代わり馴れ馴れしくベタベタと付き合っていたことが相手に辛い思いをさせていたケースも往々にしてあり得るものである。
彼らが「遊びのつもりだった」などと謳うのも偽りを伝えているとは限らず、そもそもの前提認識に問題がある故に陥っている可能性も考えられるのだ。
元々は被害者も加害者も「√群れ」=「孤立」していた場合で考えてみると、それは本当に相手を傷付けるつもりがなく、対人関係の稚拙さが衝突を招いているだけなのかもしれない。
対人関係に自信が無い人も、また自信がある人も、良かれと思ったことで結果的に他者を傷付ける可能性があるということに注意しておかなければならない。
「√群れ」同士であっても心地良い距離感はそれぞれ違うのだから。
4、群れ×√群れ
ここでの「√群れ」とは「個人」、「群れ」は「集団」のことを指す。
集団 対 個人での関係性の話である。
集団内部での立ち回りが下手な人ほど どうしても「人間関係の衝突」を繰り返しやすく、それが深刻な「イジメ被害」へと繋がりかねない問題を抱えてしまう。
学校では部活動や文化祭などの行事において、また会社などでは日々の積み重ねとして、「貢献」「働き」「成果」が求められてしまうような状況ほど、集団×個人のトラブルが噴出する可能性が高いように思われる。
特に「一致団結」を求められるような状況であればあるほど、個人(√群れ)の些細なズレが集団(群れ)の秩序に違反するような性質を孕んでしまうのである。
その点を鑑みた場合、“違反者”を許せなくなってしまうのは「規範意識」の高いタイプであることが想定される。
ふとしたキッカケで加害者側に陥ってしまう危険性が高いのは、イジメを許せないタイプの人間なのだ。
・群れの掟(ルール)
いわゆる「指導のつもりだった」などと謳う教師や上級生などからのイジメ問題の背景にあるのは、大概の場合「ルール」なのである。
ルールや秩序に重きを置く在り方は素晴らしいものでもあるが、反面 融通が利かない場合も多く、正義を担保にして相手を責め立ててしまう問題が潜んでいる。
特に普段から親などの上の立場の存在から過度な期待を押し付けられていたり、立派であることを強制されるように育ったタイプは要注意だ。
溜め込んでしまったストレスが、他者の些細なミスをきっかけにして止め処なく溢れ出てしまう状態に陥ってしまうことは避けなければならない。
相談先などをきちんと確保して、アプローチに変化を加えるなど創意工夫を持って、自らが加害者になることを回避する方法を模索すべきである。
また場を乱すような存在がワザとそうしているとも限らないため、障害特性や環境の構造的な問題にこそ目を向けることも大事である。
・群れの“制裁”を避けるために
尚、イジメ被害に遭いやすい人も、自身が持っているその“ズレ”が周りからすれば大いに迷惑になっていること想定に入れておくことをお勧めする。
それはいわゆる「弱い者イジメはダメ」といった“ルール”によって暫定的に保護されている場合も多く、“対等な”人間関係に置かれるとその保護機能が失われることも考えられるからである。
もちろん基本的には責められるほどの問題とは言えない可能性も高いが、決して他者との良い関係を維持できている訳でもない場合もあり得るのだから。
トラブルを避けるためには攻めるにしろ守るにしろ自身の在り方を変えていくか、別の環境に移行するなどしないと、同じことの繰り返しになってしまうかもしれない。
・群れ^2
その他、群れ同士の対立や群れ内部の権力争い(群れ^2)などの問題も起こり得るものである。
特に一方の勢力が過度に弱まった際に、文字通りの一方的に“群がって”攻撃するような事態には注意せねばならない。たとえ相手が元々加害者だったとしても悲劇は起こり得るのだから。
前のめりになりすぎると、気付いた時には自分自身が次の加害者の立場かもしれない。
まとめ 群れの問題を避けるためには
とどのつまり孤独(√群れ)でいることもイジメられやすい状態であるのだけれど、集団(群れ)に属することもまた内部の軋轢を避けられないため、こちらもイジメられやすいことを意味している。
時に強い結束こそが災いをもたらすからこそ世の中がイジメ問題だらけになってしまうものだ。
大事なのは必要以上に「群れ」=「イジメ」=「人間」自体を恐れることなく、それでいて衝突が起こりづらい距離感を保ち続けるということだろう。
こういった問題を回避するためには、学校や会社以外の別の「群れ」、別の居場所を確保することが効果的だと言われている。
我々が“人間”でもある以上、この問題は避けては通れない場合も多いものである。
無理に“イジメ問題”自体を打破しようとするのではなく、いろいろな価値観の中から無理なく付き合えるような人たちを探したり、今とは違う自分の在り方を模索することが必要なのだ。