森喜朗発言と、オリンピックの意義
今回の「2020東京大会」は色々な意味で、日本人にとって教訓の多い役割を果たしてくれた、と思う。
森発言の醜さは「謝罪したから、済んだ」というレベルでは到底おさまらない。が、IOCは「もう、済んだこと」というコメントを発表した。
連中もオリンピック・マフィアの代弁者で、テレビ放映権料が担保されれば、オリンピック憲章などドーデも良い、と白状した。
スガ政権など、関わりたくないので「逃げの一手」だ。
だいたい森喜朗は、スポーツを「軍事教練の代用品」くらいにしか認識していない。「個人としての無力さを思い知らせ、奴隷として生きることに馴染ませるトレーニング」である。
コイツにとって、オリンピックは各国から派遣されたスポーツ奴隷による、国別対抗戦でしかない。
そしてプロ・アスリートの健康状態は悪い。フィジカルでは常に無理しているので、故障が絶えずケガとどう付き合うかで現役生活を終えていく。メンタルでは「勝つことが、至上命題」なので、組織の為に個人を犠牲にすることが「美徳」としてまかり通っている。
日本の「サラリーマン社会」そのままである。
しかし、「日常的なスポーツ習慣」はもっと豊かなモノを実現してくれる。人間は動物なので、動けないとどうにもならない。
38年間もエアロビクスをやってきた身として、日常的なスポーツ習慣は本当に根付いてきた。
その第一の波は1990年代初頭の「バブル崩壊」だった。第二波は1997年頃の北海道拓殖銀行・山一証券破綻の金融危機で、次は2008年のリーマンショック、続いて2011年の東日本大震災。
これらは全て、「サラリーマンが、会社などアテにならない」と思い知らされた出来事で、誰もが「自分のカラダしかアテにならない」と、スポーツクラブに押し寄せてきた。
人生に於ける「勝利」とは、「生き残る」ことである。どんなに感動的で美しい戦いを展開しても、その結果死んでしまったら何の意味もない。
寿命というものがあるのは仕方ないが、その死ぬ瞬間まで「健康で、思い通りに動ける」状態を維持することが大切だ。
そこでは運動習慣が決定的な意味を持つ。
ツマラナイ競技で一時的に勝つことよりも、死ぬまで健康的であることの方が、遥かに「豊かな人生」を提供してくれる。
今回の2020東京大会は、「根性スポーツと、金権スポーツ」の醜態を晒してくれた。
森喜朗は、辞任もさせずに「猿轡」を嵌めて、一切発言できないようにして、晒しモノにした方が良い。