「文豪イーズカ」の日常
イーズカは早起きである。毎朝4時には起きる。これは高校生の頃からの習慣で、当時は運動部に居たので、帰宅して夕食を食べると寝てしまう。
受験勉強をしていたので、深夜3時に起きて深夜放送を聴きながら勉強していた。田舎の農家だったので必ず離れの部屋があり、イーズカ家はお茶農家で、「茶部屋」という作業部屋があった。
収穫した茶葉を蒸らし、手もみする。
手で摘んで、手もみする茶葉は高級だが量が少ない。機械化が進み、加工は共同茶工場でやることになり空き部屋となっていた。
親の目が盗めるので、姉の大学進学とともに中3から移り住んだ。高校の時は毎週末、みんなで集まって酒盛りをしていた。当時は未成年飲酒など当たり前だった。
勉強といっても深夜放送を聴きながらやっているので、遊んでいるのと変わらない。
しかし近所のオヤジさんたちは飲んだくれて朝方帰って来るので、いつも電気が点いている部屋を見て、「コイツは徹夜で勉強している」と、村一番の勉強家の評判が定着した。成績はずっとトップクラスだったので、当然ではある。
イーズカの勉強は「要領の追及」であった。今にして思えばマーケティング・リサーチで、「この手の問題は、このような結論と解答に至る」という、「傾向を読み、出題者の意図を探る」ことにあった。
まあ、労せずラクをしようと思っていたのだが、これが意外な結論に至る。
現役では法政大しか受からず、親をダマして浪人生活に入った。高校で生徒会長として校長を突き上げていたので、早慶あたりでないと格好がつかない、という自己都合だった。
しかし浪人して合格できる保証はなく、少し不眠症になった。「どうしたら眠れるか?」と考えて、「カラダを疲れさせるしかない」と思い至った。農作業をさせられた時は、簡単に眠りに落ちていた。
そして予備校から15時には帰って来るので、駅前の書店で「立ち読み3時間」を日課にした。
受験参考書と問題集を読み漁った。不眠症など初日から解決した。
半年後には、知らない問題など無くなった。私立文系なので3科目しかない。国語と英語は元から得意である。
国語は古典と漢文の問題を解きまくった。英語は「英文をいかに読むか」という、有名な東大の英文学者の問題集と解説を2回は読破した。
結局は「量をこなすことが、早道だ」と気が付いた。
下宿に帰ると、食事をしたら寝てしまう。翌朝3時に起きて遊んでいた。まあ読書である。坂口安吾や太宰治、谷崎潤一郎や吉行淳之介あたりを読んでいた。
論理の評論文が好きだったので、社会科学系も読破していた。
いろいろあって慶大・文学部・哲学科に進んだが、「読書の鬼」だったので、慶大生も慶大教授も小馬鹿にしていた。
論争で負けたことは無い。負けそうになると「ぶん殴る」ので、負けるはずがない。
中学までは周囲が農民の息子たちだったので、「弱い子」だったのが、高校は進学校でサラリーマンの子供たちに変わっていた。何もしていないのに「強い子」になっていた。
大学では「圧倒的に野蛮な学生」になり、逆らうヤツは片っ端からリンチにかけていた。
慶応だったので生き延びたが、早稲田なんかに行ったら、間違いなく「殺されていた」と思う。
慶応を選んだのは、大学を下見に行ったとき「女子学生が格段に美人だった」からである。
しかし、マジメな暴力学生だったので、大学時代はモテないどころか別世界で暮らしていた。
学生運動に見切りをつけてからは、他大学に「盗聴」に行っていた。東大駒場の広松渉の「西洋哲学史」、立正大の清水多吉の「フランクフルト学派研究」岩田宏の「マルクス経済学」、法政大学の「マルクス経済学」など、新左翼系の授業を総なめにしており、慶応の授業などひとつも出ていなかった。この時に取ったノートは大量で、今でも時々読み返している。
こんな調子で卒業したので、社会人になり立ての時から、「チョー生意気」だった。弱小プロダクションで広告代理店と仕事していたので、「最近はどんな本を読みましたか?」と読書の話ばかりしていて、ウットーシがられていた。
勘違いが激しいので、「読書量が人間のランクを決める」と思い込んでいた。
社会人人生は、紆余曲折と波乱万丈の繰り返しである。
「文豪イーズカ」の日常について語るつもりが、「早起きである」理由だけで終わってしまった。
まあ自分勝手ではあるが、勤勉である。