婚活の反応 その2

 その2は、デンツーを辞めたあたりから書かねばならない。1994年当時、バブルは崩壊したものの、ハローワークの財政は豊かであり、収入額の70%くらいは失業給付として支給されていた。現在は上限額が決められており、どんなに高収入の人も月額23万円くらいしか手にできない。
 当時のイーズカは契約社員とはいえ高収入だったので、半年間の支給額は高額で、なおかつ支給途中に再就職すると残額が「就職お祝い金」として一括で支払われた。
 これで200万円くらいのカネを手にした。
 そのカネでスペイン・ポルトガル・モロッコの旅に出かけた。約2か月以上は旅をした。その残額で「万来社」も設立した。
 以前からイタリア系の友人は多く、よく遊びに行っていたのでミラノで年2回開催される「マチェフ」という生活雑貨の見本市に買い付けに行った。まあ小さな貿易商社のようなものである。
 見本を買い付けては日本のクライアントに売り込み、採用されると輸入していた。本当は真っ赤なフェラーリでも買い付けたいが、そんなカネはない。
 この時期は優雅なもので婚活など眼中に無かった。しかしオートバイが好きだったので、そのヘルメットに付けるアクセサリーを買い付けて大失敗した。
 不良在庫というものが、どれほど恐ろしいモノか、を思い知らされた。母親を連帯保証人にして国民金融公庫から借金していたので、どんな手を使おうとも借金から逃れられない。自己破産したところで母に借金が付け替えられるだけである。
 これを返済するのに10年くらい掛かってしまった。
 ただ、この時期に借金との付き合い方を覚えた。とにかく「逃げない」ことである。払えない場合は、こちらから押し掛けて猶予や分割にしてもらう。相手も全損するくらいなら応じた方が得策となる。
 「相手が逃げない」と分かれば何とでもなる。
 まあこんな生活をすることになったので、婚活どころではない。母に借金を押し付けるのは、人間として許されない、と思っていたので必死である。千葉に引っ越して選挙に向けた秘書をやったり、知り合いの建設施工会社に頼み込んで、現場監督代理のようなこともした。
 現場監督代理というのは人手不足のピンチヒッターで、まずは現場に居ればよい。ただ、最初は大工にも左官にも塗装屋にも小馬鹿にされていた。質問されても答えられないからである。彼らは図面では分からないことを訊いてくる。
 現場の取り合いで、どちらの工程を先にするかが絡んでくる。これは経験値が無いと分からない。
 しかし1年もすると互いに信頼ができてくる。コチラも大工の木材運びを手伝ったり、左官の手伝いをしながら現場の雑用をこなしていた。彼らはそういう実務は評価してくれる。
 これが後の派遣社員の工場労働者の時にも役に立った。現場では、カラダを動かすことが大事である。口先だけのヤツなど、誰からも信頼されない。
 この頃は、第3期黄金ビンボー時代に当たるが、現場監督代理を辞めてから、万来社業務に戻った。そしてビンボーながら、広さだけはある事務所だったので、毎回100人くらい集めて年に3回はパーティをやっていた。
 名刺だけ持っていても仕事にはならないが、実際に多種多様な人を集めていると、思いがけない仕事が実現したりする。
 不良在庫を抱えた時に、「イーズカイスト」なるネットショップを始めたりしていたのでネット系の仕事もこなしていた。
 理屈は得意なので、シンポジウムやセミナーの企画運営を多数やった。ここに人脈というものが役に立つ。仕事を取るためではなく、実行する時に絶大な威力を発揮する。どんな要望にも応えられる人脈を持っていたし、必ず実現に持ち込む自信もあった。
 そうこうするうちに、大学の准教授となり、そこも追われてヤル気を失ったが、マンション管理人の仕事に出会った。実に楽で自由な仕事であった。企画が「すべった、転んだ」という不愉快な目に遭わずに済む。それに加えてビジネスセミナーの講師も始めた。ひとに説教するのは天職である。
 と、仕事の話ばかりになってしまったが、ビンボーしててもヒトとの出会いはある。
 この間の婚活を一言で言えば「返品の歴史」である。蓼食う虫も好き好き、で変わり者に興味を持つ女性がいる。当然何らかの期待がある。しかし男女の出会いが期待通りに進むことなど、まずあり得ない。
 「こんなはずではなかった」「想像してたのと違う」「いまさら疲れるのはイヤ」という自然な反応が返ってくる。
 「無かったことにしてください」はまだイイ。証拠隠滅に過ぎない、昨今の政治なら日常茶飯事である。
 「喋ったら、殺す」というオンナまでいた。脅迫である。
 しかし40代半ばに「自分の為だけでは、もう頑張れない」と思ったのは真実である。それまでは見事なくらいに「自分の為」だけに生きて来た。背後から刺し殺されなかったのが不思議なくらいである。
 ビンボーなど何とでも我慢できる。ひとりなら何の気遣いも無くガマンできる。家族を抱えていたら、そうは行かない。みずからの責任で巻き込んでいるので、オトシマエをつけないと許されない。
 そういう不自由さに何の魅力も感じなかったが、「こうでもしないと、生きられないのではないか」と思うようになった。「人のため」というとキレイ事だが、「自分以外のため」なら努力する気になる。諦めてガマンする人生よりも、遥かに豊かではないか、と気づいたのである。
 もう50歳を目前にして思うようになった。徳川家康の「人生は、重き荷を背負いて遠き道を行くがごとし」で、重き荷を背負わないと、歩くことすらできない。
 波乱万丈で苦労の多い人生を歩いてきたので、なぜか納得がいく。
 「懲りない、めげない、くじけない」をモットーにしてきたので、「諦めたらオシマイ」だと思っている。
 「求めるもの」があれば、死ぬまで努力できる。逆に「努力しない人生」には魅力を感じない。
 山中鹿介の「我に艱難辛苦を与えたまえ」の気分である。
 常に動き回っているので、新たな出会いは引きも切らない。体力があるし、懲りない精神なのでダメならすぐ次に行く。
 艱難辛苦よりも「甘い生活」が良いなあとは思うが、それは神(オンナ)のみが知ることで、イーズカに決定権はない。
 イメージできない事は、ゼッタイに実現しない。求めない限り、それが実現することはない。


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