ブログの流儀

 ブログという言葉が、いま有効なのか良く分からないが、イーズカはブログを書き始めて約20年経っている。
 この長文タイプでずっとやっているので、ツイッターのような短文には何の興味もなかった。「ああだから、こうだ」という論理性が無いと書く気がしない。
 「好きだ」「嫌いだ」「きれいだ」「バカだ」というコメントは、犬猫が「わんわん、にゃんにゃん」鳴くのと同レベルだと思っている。しょせん擬態語なので、何も言ったことにはならない。
 イーズカは言いたいことが沢山あるので、どうしても長くなってしまう。
 しかし、つい先日もあったけれど「短くしてくれ」というリクエストには真剣に取り組む。
 結果的にはうまく行かなかったが、「面白いから読みたい、しかし時間と労力が掛かり過ぎるから簡潔に語って欲しい」という要望は無視できない。誰しも忙しさの中で生きている。
 そしてイーズカ自身の作文力を向上させるためにも必要である。「作文力を上げるためなら、何でもやる」のが基本姿勢だ。
 どんな種類の文章でも書く自信はあるが、まだ途上にあり、「読みやすく、納得しやすい」文章の為なら、ありとあらゆることをやるべきと思う。
 大学で学生に教えていた時に、文章の書き方を教えていた。レベルの低い大学だったが、作文力だけ向上させれば早慶にも対抗できる、と教えていた。
 昔からそうだが、文章をマトモに書ける人間は少ない。偏差値の高い大学でも、書けない奴が山ほどいる。
 何をどのように教えていたか、というと、まずイーズカが持ってきた日経新聞の記事を要約させる。
 イーズカから作文課題を出し、要約したモノを材料にしてひとつのストーリーを組み立てさせる。自分の主張など無くても構わない、一般論でも良いのである。
 そして書かせる、とにかく書かせる。「読んで、書く」という作業を延々と反復練習させる。これ以外に方法論はない。
 これをやっていると、女子学生の方が圧倒的に上手かった。オトコに多いのは、じぶんの考えを書いてオシマイ、というヤツである。考えというより、先ほどの犬猫の「好きだ、嫌いだ」という脊椎反射に過ぎない言葉であった。
 全員のレポートを毎週、真っ赤に添削して返却していたので、「オマエの考えなど聞いていない。オマエの薄っぺらな意見を聞きたい奴など世の中には居ない。まずは世間の話題を客観的に理解しろ。」と書いて返していた。
 オトコは文章に対して怠惰である。女子はオシャベリ好きなだけあって、表現にこだわる。
 大学を辞める時に、学生たちが色紙に寄せ書きしてくれた。「センセイの授業のおかげで、新聞要約が上手くなったと、自分でも思います。」とあったのは嬉しかった。
 マトモな文章を書きたかったら、マトモな本を大量に読むしかない。イーズカは昨年の相続放棄で実家に置いてあった本を4000冊くらい捨てた。高校時代の岩波新書など背表紙が真っ黄色になっていた。東京でも夜逃げ引っ越しで数千冊は捨てている。
 哲学書や経済学書は単に読んでもダメである。常にメモして自分なりの言葉に引き寄せないと、何も読んだことにならない。大学時代の読書ノートだけで数十冊ある。
 文章力はスポーツと同じで、筋肉トレーニングのように目的をもって同じ作業を反復するしかない。筋肉同様、怠けるとすぐに落ちてしまう。
 イーズカのブログが長いのは、そんなことも理由のひとつだ。毎日訓練して、効果がありそうなことは何でもやってみる。それはゲームとしてもオモシロイ。
 ということは、イーズカは自分の為にブログを書いている。読者に奉仕するためではない。多くの人に読んでもらいたい、とは思うが、それは結果であって目的ではない。
 もう20年も書き続けているので、勘違いする奴が必ず出てくる。ネット上でも現実にも居るのだが、「あの表現はここした方がイイ」「この登場人物を出してくれ」と、僭越極まりないことを言ってくる。
 こういうヤツは問答無用で友達から削除する。
 イーズカは、多少のバカは許容するが、無礼な奴と下品な奴はゼッタイに許さない。この内容を細かく説明する気などない。
 削除した奴は、全員を「出入り禁止」にしている。この手のバカは何度でも失敗を繰り返すので、学習効果が無いのである。
 イーズカは間口は広いが、出口は狭い。締め出したヤツは、ほとんどが再入場不可である。

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