簡略化はツマラナイ
今朝、あるリクエストに応じて、長い文章を要約する作業をやってみた。
確かに論旨は明快になるのだが、読むに値しない「駄文」にしかならない。前日の文章と読み比べてみたのだが、どこにでも転がっているようなツマラナイ文章である。
そんなクダラナイことを書くために文章を作成しているわけではない。基本的にイーズカは自分の為に作文している。それはセミナーの為だったり、論文の為だったり、連載コラムの為だったり、小説のネタだったり多様な展開がある。
結論などほとんど誰でも知っているので、そこに至るプロセスこそが重要である。回り道や、寄り道や、本論から外れたと思うような意外な場所に連れて行かないと意味がない。
それへの反応は十人十色である。当然であり、それこそがオモシロイ。
イーズカは断定調で語ることを常としているが、人生や社会を固定的に捉えたことなど一度も無い。「間違っている危険性を知りながら」言い切ってみただけである。
社会も人生も弁証法的に捉えている。人生で失敗することなど、当たり前のことである。主張も「ひとつだけ」を伝えたいのではなく、相反することを同時に訴えることもある。
むかし、京大教授であった池田浩士氏の講演会に参加した。質疑の時に「なぜ、池田先生の本は難解なのですか?」と尋ねたら、「もう分かっていることなんか書いてもつまらないじゃないか。分からないからこそ書いている。」という返答だった。
「素晴らしい」と思った、分かり切ったことなどバカに書かせておけばよい。分からないことを追求することが、文章を書く本当の意味なのだ。
今夕のニュースで、「みどりのタヌキ」が「維新の恥知らず」と共に、9月入学制度の実施を訴えていた。
ほんとにバカはアタマが単純なので幸せである。タヌキは「こんな時でないと実現できない」と言っていたが、タイミングの説明にはなっているが、実施の意味や重要性について語ることは無かった。
「世界がそうなっている」ことは分かった(すでに知っている)が、日本がそれをやるべき理由がゼロである。「船に乗り遅れるな」と急かせるだけで説得力はない。
このタヌキはファシストだと思う。個人などいっさい無視して、全体の模範像ばかり主張する。
「ステイ・ホーム」などとはふざけるな。「籠城しろ」と言え。ファシストはネーミングがお好きである。
もう文章の簡略化など二度とやらない。無意味である。どこかサルがタマネギを剥く行為に似ている。剥いても剥いても何も見つからず、「中心という空虚」に辿り着くだけである。
まあ、簡略化は文章を陳腐化する、という現実を思い知っただけ収穫であった。