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第十五話 天井の星々 

                      
五十歳にしてようやく家を建てた。
二人の子供がそれぞれ高校と中学に進学することになった。上が女の子で下が男の子ということもあって、かねがね別の部屋を用意してやらなくてはと思っていたのだ。
ひと駅先に手頃な土地の掘り出し物が出た。三十坪ほどだったが、幹線道路から距離を置いた小さな公園に隣接した静かな所だった。建築士にいろいろと注文してそこそこ納得のいく家ができた。建築士は市役所に努めている妹の紹介で、なんでも高校時代のクラスメートだそうだ。
こだわったのは浴槽と台所と書斎だった。ジェットバスにして浴室に乾燥機を付け、梅雨時でも浴室に洗濯物を干せるようにした。キッチンは対面式にして、ガスコンロは業務用の火力の強いものにした。書斎は本の判型に合わせた木製の書棚を作り付け、三千冊近くある蔵書の重みに耐えられるように厚い米松で床を補強した。
大方の予算をそこで使い果たしてしまった。
そのあおりを受けて、夫婦別々にした寝室は質素な材料で間に合わせた。ただ寝るだけならそんなに凝ることもなかろう、と思ったからだ。私の寝室は六畳のフローリングで、妻のそれはたっての希望で八畳の床の間付きの和室にした。和室は洋室より何かと使う材料が割高だ。それならと、私も贅沢を言わせてもらって寝室の天井は杉板張りにしてもらうことにした。完成してベッドに横になってみると、天井板のそこここに小さな丸い穴がたくさんあるのに気付いた。
妻に訊いた。
すると、「私の和室に思った以上に経費がかかって予算がなくなっちゃったのよ。あなたは杉板の天井がいいって言ってたけど、同じ杉板でも節のあるものなら安く手に入るって大工さんが言ってたからそれにしたの」ということだ。「どうせ寝てしまえば節のあるなしはさほど気にならない」、そう思って納得した。
仕事から帰り、食事を済ませて湯船につかって疲れた身体をほぐした後、自分一人の寝室で本を読みながら寝そべっていると、至福の時間が流れているように感じる。
あるとき、仕事が思うように捗らず、なかなか寝付かれない日が何日か続いた。そんなときはとても本などを読む気にならず、ベッドに横たわってまじまじと天井を眺めて時間を潰すだけだ。
天井の杉板の丸い節は大小あり、それぞれがうまい具合に散らばっている。灯りを落として眺めていると、まるでそこに満天の星座が出現したかのようだ。あれが北極星、これがオリオン座、向こうが小熊座かなどと目で追っているうちに、それらは南海の紺碧の海に浮かぶエメラルドのような島々に見えてくる。いつしか私は海賊船の船長になっていた。
「何が出てくるやも知れぬ。何が出てきても先に手出しをすることはならぬ。上陸にあたっては細心の注意を払え」などと、屈強なならず者を顎で使嗾している。
冒険譚に飽きると、今度は大航海時代のスペクタクルが繰り広げられる。七つの海を股にかけ、王国から王国へと権謀術数を尽くした征服譚に話は発展してゆく。
そしてその先は、王女や貧しく美しい娘を救うお決まりの恋愛物語、妖怪や怪物を退治して恋を成就させるロマンスに行き着く。
その日も、いつものように灯りを落として天井に眼を遣り、眺めるともなく見ていた。すると、それまで星座や南海に浮かぶ島々だとばかり思っていた天井に突然経文が浮かび上がった。長方形の部屋の長い辺に沿って張ってある杉板に、縦に薄墨で書かれたような経文が現れたのだ。そしてその端に衣を纏って菩薩のような白い影が浮かんでいた。
そしてあの小さな節々が菩薩の双眼になる。
菩薩は一体だけではなく、数限りなく増殖した。
菩薩の千の眼が私を凝視していた。
菩薩の眼は炯々と輝く。
その眼に見守られて寝に落ちたようだ。
菩薩がしきりに「出家して弟子にならぬか」と誘う。
「弟子になって何処に行くのだ」と私は訊ねた。
「修行の場は彼岸と此岸の出遭う、淡いの場だ。魂を肉体から遊離できる者だけが踏み入れることのできる特別な場所だ」
「魂を遊離できるって、それじゃあ俺は死んでしまうのか」
「いやいや、そうではない。一時的に魂を肉体から離して自由にしてやるということだ」
私は菩薩の語っていることが十全には理解できなかった。
「出家したら還俗は叶わぬのか」と訊いてみる。
「還俗は叶わぬが永遠を約束する」と言う。
永遠とは永遠の眠り、つまり死か、それとも永遠の生か。
どちらにしても退屈極まりなくはないか。
それに家を建てたばかりだ。
ローンもかなり残っている。
しばらく逡巡していた。
どこからか欠伸をする気配がする。
そのうちに続けざまにくしゃみをする音が聞こえた。
するとみるみるうちに千の眼が千の節穴になった。

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