第八十三話 八月の濡れた兎の瞳
八月、夏休み。子どもの頃の夏の日の想い出、それは散々なものだった。
川で泳いでいて溺れかかったり、桃や李を悪戯半分に盗ったことを重大な窃盗事件として学校に通報されたり、片付けなくてはと思っていた夏休みの宿題をずるずると伸ばして結局遣らずじまいで登校日を迎えたり、それが毎年のように繰り返された。
さらに想い出を暗澹たるものにすることがあった。夏祭りの帰りに兄に連れていかれた骨董店でのことだった。骨董品などに興味の無い私は早々と飽きてしまって、床の罅割れを足で穿っていた。
「小僧、そこで何をしておる!」
おどろおどろしい声音に振り向くと、そこに怪異な鬼が立っていた。
「まさか、この世に鬼などいるものか」
頭では理解してはいるものの、いざ眼の前に現れると、肝を潰す。
鬼の面を被った兄の悪戯だった。
そのことが尾を引いて、いつしか骨董店が嫌いな場所になってしまった。それに加え、夏の日の想い出と古着屋や骨董店が嫌いな場所になることの間にはこんな事情があった。
私が生まれ育った街には平安時代から続く神社があり、そこでは、夏になると毎年祭りが催され、神楽が奉納されていた。
古の人が舞いを舞うのに着ていたその衣装を顔見知りの人間が身にまとい、古来変わらぬ舞いを舞う。舞いの装束は色が褪せ、布は毛羽がとれ、繊維は痩せ、格子が浮き出ている。演者は塗料が剥げ、罅の入った面を着け、舞台の奥からしずしずと現われて舞を舞う。見知った人間が全く別の存在となって立ち現れることの怖ろしさ、そしてその衣装の発する匂いが惹起させる恐怖。
子どもにとってはせっかくの夏祭りだ。屋台を覗き、そこに現われたハレの世界を楽しみたかった。しかし、時代掛った神楽の衣装、哀調を帯びた音楽、罅割れた面、ゆるゆるとした演者の仕草、どれも子どもにはかなり気味の悪いものだった。何より、それらが一体となって醸し出す古びた雰囲気が酷く怖かった。舞台の脇に垂れた緞帳は、布の襞の柔らかさが妄想を呼び起こす。翁の面を着けた演者のゆっくりとした所作を眼で追っていると、歩を運ぶたびに、足を上げるたびに、衣装とは不釣り合いな足袋の白さが妙に不気味だった。
虚ろな鼓の音、どこかこの世のものとは思えない鉦の音、侘しげな横笛の音色。子どもの視線からは仰ぎ見る格好になる木造の舞台。手摺の上に設えた宝珠には青銅が被せてあり、緑青の湧いた肌が一層古を想い起こさせる。階段や廊下、手摺は風雨に晒され、白骨化し、節や筋が浮き出ている。
「こんな風に演者につられてフラフラと、つい幕間の向こう側の世界に足を踏み入れてしまいそうになる。神隠しなどということが本当にあるとしたら、うってつけの場面ではないだろうか」
ふとそんな思いに駆られた。
そんなこともあって、古い衣装の発する臭いと古着の布の時を経た質感に接するたびに何となく不安を感じるようになっていた。
故郷を離れて都会で暮らすと、もう古風な習慣に接することもなくなった。私も結婚して娘もでき、子どもじみた感傷に浸ることも少なくなっていた。
奇妙な体験をしたのは秋の連休に女房の実家に帰省したときだった。墓参りついでに少し足を延ばし、高原の蕎麦屋で食事をしようということになった。食後に女房と娘が街道沿いにある地球屋という骨董と古着を商っている店に寄りたいと言い出した。
ここは、店内のディスプレイとして飾ってある吊るし雛の数がギネスブックに登録されている知る人ぞ知る店だった。店内には喫茶スペースもあり女性に人気の店だ。女房と娘は端切れや蜻蛉玉などを一心に物色している。付き合いで入ったに過ぎない私は所在なく、見るともなく店内を散策していた。
暫くすると、妙な視線に気づいた。
兎の視線だ。人形作家の辻村ジュサブローの兎の布人形が店内に三体あるのだが、どの兎も常に私に視線を向けているのだ。バラバラに置かれた三体の兎の人形は、一体ずつなら、置かれた位置によって、どの位置に私がいても正面に視線がくることはあるだろう。しかし私が移動しても、その三体の兎の人形は必ず揃って私のほうを見ているのだ。
「そんな筈はない」
何度も立つ位置を変えてはみるのだが、どこに立っても必ず小さな赤い眼をこちらに向けてくる。まるで生きて、眼で私を追っているようなのだ。気味が悪くなって一度、店の外に出てみた。風は濃い緑の風が吹いていた。街道が切り開いた山間の蒼空はどこまでも清涼だった。
ひと息吐いてもう一度店の中に戻ってみると、吊るし雛の赤い紐が幾重にも垂れているその先で、女房と娘は談笑しながら蜻蛉玉を漁っている。その肩越しに例の兎の布人形がまたこちらを見た。そして笑いかけた。
私は眼を合わさないようにした。
だが、気になる。
まだこちらを見詰めているだろうか。あの笑いに何か意味があるのだろうか。
その時、何処かで鉦の音がした。
「兎、兎、辻村ジュサブローの兎の布人形」
意識すればするほど私の視線は兎の、その眼を探してしまう。
膠着した視線を外そうとしたとき、兎の口元が幽かに動いた。
「こっちにおいで、こっちにさ」
兎は濡れた瞳で私を誘っていた。
その刹那、鉦の音に乗って私の鼻先を掠め、古の香りが薫った。
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