第五十一話 セレンゲティ異聞
セレンゲティ国立公園はアフリカのタンザニアに在る。南アフリカのクルーガー国立公園と並ぶアフリカ屈指の自然公園だ。広さと云い、動植物の種類の多さと云い、アフリカの自然公園としては申し分ない。ジャングルに棲む動物、草原に暮らす動物、水辺に棲息する動物、飛翔する動物、それぞれが生来の性質に依って生きている。
セレンゲティでは、草食動物は乾季には食糧の確保に難儀するものの、雨季になると草花が繁茂し、それを食べて肥育し、子孫を増やすことができる。草食獣の出産時期はそれを餌とする肉食獣にとってもまた恵まれた季節だ。
草原には様々な動物が生息している。草食獣に限ってもゾウ、サイ、カバ、バッファロー、シマウマ、ヌ―、ガゼル、スプリングボック、スイギュウ、キリンと多種多様だ。なかでもキリンは鼻持ちならない存在だった。自惚れが強かったのだ。
キリンのスタイルが良いことは皆が認めていたので、わざわざ鼻にかけなくてもよさそうなものだった。しかし傲慢なキリンはカバやサイ、ゾウに向かって、「そんなにいつも食べてばかりいないで、少しは草原を走ってみてはどうかね。自分の容姿に関心が薄いから、食べてばかりで運動に費やす時間が少なくなる。その結果、そんなにぶくぶく太ってしまうんじゃないのかね。ちっとはみっともないと思わないのかねぇ」と、いかにも呆れたと云う風に言い放った。
そしてカバに向かっては、「太ると身体だけでなく、ものの考え方にも影響してきて、何事につけ魯鈍になってくるのさ。勢い、深く考えずに行動するからライオンなんぞにやられることになる」と説教を垂れた。
草原がジャングルに接する所には深いブッシュがあり、そこに草食獣を狙って屡々ライオンが潜んでいる。そうとは知らないキリンはブッシュに首を突っ込んでアカシアの葉を食んでいた。すると突然、ブッシュに潜んでいたライオンの一団がキリンに襲い掛かった。キリンはそれこそ「脱兎の如く」一目散に草原に向かって逃げた。無我夢中で暫く全速力で走ってから後ろを振り返ると、ライオンは振り切られたらしく、もう追ってはこなかった。キリンはまたブッシュの淵に生えているアカシアの葉を青い舌で貪っていたが、急に喉の渇きを覚えた。無理もない。ライオンに追われて必死に酷暑の草原を長い距離走った後なのだ。その健脚でライオンの追撃をかわしたものの、さすがにこの炎天下だ、喉が渇いた。
ふと見ると、ブッシュと草原の間に湧き水が造った沼地があった。そこでキリンは沼のワニに襲われないように注意しながら、膝を屈してたっぷりと水を飲んだ。やはり走った後の水は身体の隅々にまで染み渡り、このうえない旨さだ。存分に水を飲んだキリンはふと睡魔に襲われた。しかし、ここで寝込んではまたライオンやハイエナに捕食されてしまう。そう思って視界の開けた草原に戻ろうとした。立ち上がり踵を返した瞬間、淵に足を滑らせ、沼に足を取られてしまった。運が悪かったとしか言いようがない。そこは朽ちた枯れ草が積み重なってできた湿地で、どこまでも深く泥が堆積していた。キリンが逃れようともがけばもがくほど、足の泥が纏わりつき、ずぶずぶと深みに嵌ってゆく。
「まずい・・・」
そう思ったときには既にライオンの群が忍び寄っていた。
「これはこれは、『肉屋の為に働く豚』と云うやつだな」
ライオンは十頭ほどの雌の群で、労せずして手に入るご馳走にそろそろと近づくと、キリンの自慢の足をガブリとやった。あまりの痛さにあげた悲鳴に、沼で昼寝をしていたカバは眠りを破られた。カバの眼の前では阿鼻叫喚の惨劇が繰り広げられている。キリンはしきりにカバに助けを求める。その姿は悲痛で、いつもの傲慢なキリンの姿からは程遠いものだった。
カバは日頃自分たちを馬鹿にしていたキリンを助けようかどうしようか思案していた。そして、常々キリンがカバに垂れていた教訓を想い出した。
「軽挙妄動せず、沈思黙考せよ。軽々に動かず、よく状況を把握し、思慮を重ねた上で最善の道を、念には念を入れて選べ」
確かに、下手に助けに入ってこちらが襲われたのでは元も子もない。
「そうだ、ここはひとつ沈思黙考して、じっくりじっくり考えることにしよう」
しかし、同族ではないとは云うものの、キリンも草原に暮らす仲間と云えば仲間だ。「何とかして助けるべきなのだろう。『機を見てせざるは勇なきなり』と云う教えもあることだし・・・」
カバは日頃のキリンの教えに従って考えた。危険を回避すべきか、正義に殉ずるべきか。暫く考えた後にカバは「そうは云ってもここで助けないと禍根を残すことになる」と熟慮の末、おもむろにキリンを助けようとライオンの群の方を観た。するとそこにはもうキリンの姿はなく、骨とあの特徴的な模様の皮だけが沼の鈍く光る泥の上に無残に残っていた。キリンは麒麟児と呼ばれて嘱望されていた己の将来に、むざむざと泥を塗るはめになった。
セレンゲティ国立公園の空は今日も蒼々と広がっていた。たらふく草を食み、沼で泥浴びをするカバの頭上をサバンナの風は爽やかに吹き渡っていった。
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