第二話 ハーメルンの笛吹き男は
把手を勢いよく掴むとバタンと大きな音を立てて木戸を閉めた。村外れの茅屋は小屋全体が一頻り身震いし、揺れが収まったときには一回り縮んで見えた。木戸を閉めたときに破衣の袖が把手に引っ掛かった。男は慌てて外そうとして敷居に躓きそうになり、庇おうと両手を下に向けたときに袖口が鍵裂きになってしまった。
今日は聖ヨハネとパウロの祝日なのに、遣ること為すことついていない。
「それもこれもあの吝嗇な村長と村人のせいだ」、そう思って男は先程の村人たちとの遣り取りを反芻した。
一二四八年六月二十五日、ハーメルンの村外れに不思議な出で立ちの男が姿を現した。男はパッチワークのように色とりどりの柄と形の布を継ぎ合わせた上着を身に纏い、ぴっちりとしたパンツを穿いていた。その風体は村人たちの肝を潰すのに十分だったがさらに村人たちを驚かせたのは、男は歩きながら器用に笛を吹いて何処か懐かしいメロディーを奏でていたことだった。
男は村に着くと、小さなパブを見つけ、入っていった。店内は、聖ヨハネとパウロの祝日で羽目を外している村人たちの嬌声や笑い声が飛び交っていた。男は些か気後れしながらも店主にこう訊いた。
「こっ、この村の村長にはどこに行ったら会えるかね」
「村長かい、そうだね、たぶん山の麓を流れる小川の畔の水車小屋だよ。村の有力者たちと鼠退治の対策を講じているだよ」と端の欠けた分厚い陶製のカップを洗いながら店主は面倒くさそうに応えた。
男は村外れの水車小屋に着くと、村長にこう切り出した。
「わっ、儂は鼠獲り男だ。鼠に小麦を食い荒らされて困るっているなら、この俺様があっという間に退治してやろう。もちろんいただくものはちゃんといただくがね」
村長は有力者たちと暫く相談すると、半信半疑ではあったが男の申し出を受けた。と云うのも、近頃、近郷近在で、笛吹き男が村を訪れては、笛を吹き鳴らして犬でも猫でも鼠でも子どもでも、見境なしに攫っていくと云う噂を耳にした許だったからだ。村長と村の有力者たちは恐怖と期待に満ちた眼差しを男に向けた。その視線にただならぬ僥倖を感じた男はニヤリと笑って、笛を吹きながら村の中を一回りした。すると、家々から鼠たちが走り出て、男の後を着いていった。男が行く度に家々から鼠がゾロゾロと集まってくるので、村のはずれに来る頃には、男の後ろに灰色の長い絨毯が敷かれたようになっていた。
男はヴェーゼル河に差し掛かると、服を脱いだ。そして絡げた服を頭の上に括り付けると、また笛を吹き鳴らしながら河の深みへと入っていった。もちろん鼠たちも黙々と男の後を追った。そして、長い灰色の絨毯のようなたくさんの鼠たちは一匹残らず溺死してしまった。
村人たちは鼠の災厄から免れたことを知ると、金を払うと約束したことを酷く後悔し始めた。
そうとは知らない笛吹き男は、河から上がると服を着て、村長たちから約束の金を受け取りに、また山の麓の水車小屋へと向かった。
男の顔を見ると村長たちは眉を顰めた。そして先刻の約束などどこ吹く風と、男への支払いを峻拒した。
「やっ、約束が違うではないか。そうか、そっちがその気なら、こっちにも考えがあるぞ」
笛吹き男はそう捨て台詞を吐くと、村外れの農作業小屋に戻った。そこで冒頭のように、腹立ち紛れにバタンと大きな音を立てて木戸を閉めたのだ。
笛吹き男の怒りは収まらなかった。何とか復讐をしてやろうと考えた。
「そうだ、村の子どもたちを攫ってしまおう。そうすれば村人が儂にした仕打ちを深く悔いることだろう」
そしておもむろに立ち上がると、聖ヨハネとパウロの祝日で沸き返る村へと再び向かった。今度は赤い奇妙な形の帽子を被り、獣脂で汚れた地味な衣装を纏った狩人の出で立ちで、恐ろしい形相をして・・・。
その日はどんよりとした雲が天蓋を覆い、雲間から今にも雨粒がパラパラと落ちてきそうだった。男は笛を携え、村の入り口に屯していた子どもたちの群に近づいた。子どもたちを攫うにはどんなメロディーがいいかと思案し、軽快な曲を吹こうとした。すると、子どもの中の一番背の高い子が「ねえ、小父さん、僕たちを誑かそうたって駄目だよ。鼠のような訳にはいかないからさ。それより耳寄りな話があるんだ。悪い話じゃないと思うけど、どう」と切り出した。
「どう、と云ったって訊いてみなくちゃ判んねえよ。そいつはどんな話なんだい」
口々に喚く子どもたちの話を要約するとこうだった。
大人には大人の仕事があるように、この村の子どもたちにも子どもの仕事があった。その仕事が子どもたちには過酷だった。水汲みに始まり、薪拾い、家畜の飼料づくりに放牧と世話、料理の下働きと食事の用意、幼い弟妹の世話、洗濯の手伝い、使い走り、教会の神父への夜伽など、数え上げるときりが無かった。この頃の子どもたちは、業務遂行能力は未熟で補佐的な労働力としてしか扱われていなかった。しかし自分たちも一人前の仕事がしたかったし、何より自分で自由に使える時間が欲しかったのだ。仕事に忙殺されていると、仲間と遊ぶ時間などはもう残っていなかった。学校などはまだ無く、書物も無く、子どもたちの知的好奇心は自ら妄想を逞しくするか、自然から学ぶか、そうでなければ子ども同士で不確かな知識を教え合うかしかなかった。
それより何より、子どもたちにとって苦痛だったのは大人たちの俗物ぶりだった。子どもたちの眼に映るのは傍若無人な村の実力者に媚びへつらう臆病な村人の姿だった。陰ではこそこそと権力者に盾突く言辞を吐くものの、それは所詮揶揄の域を出ない。大人のなかにはそれまでの常識を破って革新的なアイデアを披歴した者も居るにはいたが、ついぞ実行した試しはない。そして隣近所の顔色を窺い、噂に怯えて戦々恐々としていた。大抵の大人は「自分たちは既に、十分人として成熟していて分別もある。しかし、子どもたちは未熟で分別もない」と考えた。しかし、大人たちの中にも分別のある人間と無い人間がいる。子どもと云えども十分に分別を弁えた者もいるのだ。分別を弁えた子どもの前で、分別の無い大人が無智を晒し、無能の馬脚を現す。そんな場面に度々遭遇する。その度に、子どもたちは大人の醜悪さにうんざりするのだ。
さらに悪いことには、この醜悪な大人に感化されて真似をする子どもがいる。この大人の皮を被った子どもほどたちの悪いものは無い。大人の陳腐な価値観や振舞いを子ども同士の遊びや決め事の中に持ち込む。それも、大人の権威を笠に着て。こうして繊細な子どもたちは傷つき、疲れ果てていた。
そして笛吹き男にこう切り出した。
「ねえ小父さん、僕たちを大人のいない静かな所に連れて行ってよ。どこか、誰にも気を使わなくていい所に。自給自足できて、自然環境に恵まれた所に。そうだな、農業とか漁業、牧畜なんかができるところがいいな。大人たちにはハーメルンの笛吹き男に連れられてコペン山の麓にある処刑場に連れていかれたとか、何とか、伝えるように手配しておくよ。洒落た曲なんて吹かなくていいからね」
そう申し出ると、子ども同士で自活ができ、誰の干渉を受けることもない丁度良い大きさの島に渡っていった。男は暫く子どもたちの後を着いていったが、全員が島に渡り終えたのを見届けると、踵を返して村に戻って来た。
村の入り口近くまで来ると、村人たちの騒然とした様子が看て取れた。女たちは泣き叫び、男たちは怒声を吐き、村長や村役人に詰め寄る者も出ていた。それはそうだろう。村長たちの失策によって村の子どもたちは一人残らず居なくなってしまったのだから。
村への道すがら笛を吹き続けてきた男の後ろには、どうしたことか沿道から引き連れてきた鼠たちで、いつの間にか灰色の絨毯を敷いたような有様になっていた。
そこで男は一計を案じた。
「ここで一芝居打てば、ひょっとして貰い損ねた金をせしめることができるぞ」
そう考え、「おお、村の衆、何をそんなに嘆き悲しんでいるのです」と村長に訊ねた。
すると村長は「よくもいけしゃあしゃあとそんなことが言えるものだ。村の大切な子どもたちをお前が笛の音と共に連れていってしまったと言うではないか、どうしてくれよう」と、口角に泡を飛ばして男に食って掛かった。
男は動ずる風もなく、「いやいや、儂も一度はお前さん方の裏切りに遭って、我を忘れて子どもたちを村の外に連れ出した。連れ出しはしたものの、それ、儂も人の子、人の親。道中、子どもたちが不憫になってな、そうしたところ、一天俄かにかき曇り、突然天から一条の光と共に眼の前に神様が降臨なさったのだ。そして、恐れ慄いて平身低頭している儂の頭上に神様のご宣託が轟いたのだ」と話した。
「なあお前、そちも人の親なら子どもの居なくなった村人の悲しみは判らない訳がなかろう」
「しかし神様。お言葉ですが、あの村人たちは鼠を退治させておきながら、儂を騙して悪銭一文払おうとしなかったのです。その腹いせをしたことが、それほどまでに悪いことでしょうか。むしろ責めを負うのは、村長をはじめとするあの村人たちではないでしょうか」
「お前の怒るのは尤もだ。しかし、仕返しをするにしても人の道を踏み外すような真似は厳に慎まなくてはならぬ。どうじゃ男よ、ここはひとつ慈悲の心で子どもたちを返してやってはどうかな」
「神様がそうおっしゃるなら、儂とて頑なに意地を張るつもりはございません」
「とまあこんなやり取りがあってな、こうして子どもたちを連れ帰った次第だ」そう男は村人たちに告げた。
しかし、男の後ろには子どもたちの姿は無く、ただ灰色の絨毯のような鼠の一群が居るだけだった。
そこで村長が「ところで、村の子どもたちは何処に居るのかな」と男に訊ねた。
「うん? 眼の前に居るではありませんか。この通り儂の後ろに居るのが皆さんのお子さんたちですよ」と地面を指さした。
「何を言うか! そこに居るのは子たちたちではなく鼠ではないか」
「何をおっしゃいます。今は儂の笛で鼠の姿に身をやつしてはいますが、すぐにもとの姿に戻りますよ」
「それでは早速、子どもたちを・・・」
「いやいや、そうは問屋が卸しません。お約束の報酬を受け取らなくては。子どもたちを元の姿に戻すには頂くものは確かにいただかなくてはなりません。二度目の空手形は受け取れませんな」と男はにたりと笑った。
聡明な読者はもうお判りだろうが、男は子どもたちに僅かな報酬で雇われた、下手な笛吹きの道化師だった。
子どもたちは男と示し合わせて、事前に「ハーメルンの笛吹き男」の御伽噺を村中に流布させておいた。大人たちの意識に刷り込まれた話に便乗して一芝居打つと、大人たちはまんまと策に嵌まってしまったのだった。