第八十二話 青春の影と光
けたたましく試験開始のベルが鳴った。配布された数学の問題用紙をひっくり返し、全問を一瞥する。時間の取られそうな問題にあたりをつけ、残りの問題にどれくらい時間を割けるか見当をつける。
時間配分が決まったら、解きやすい問題から粛々と解いていく。けして焦ってはならない。五科目を終え、帰り支度をしながら問題を反芻してみた。
「数学と理科に多少手古摺る問題があったな」
不安と云うほどではなかったが気掛かりが残った。
合格発表の日は、雪が舞い落ちてきそうな曇天だった。
「やった!」
城跡にあるN高校の校庭に設えた掲示板に自分の番号があることを確かめると、逸る気持ちを抑え、合格の報告をしに中学校に向かった。職員室に顔を出すと、達磨ストーブを囲んでいた教師の輪のなかに担任のY先生も居た。
その頃、私は大人たちの振舞いにすっかり失望して、不信感を募らせていた。小学校では、休憩時間に職員室に訪問販売にきていた業者から、凄まじい形相で日用品を買い漁る教師の姿を目のあたりにした。そのあまりの浅ましさに度肝を抜かれた。中学校では、高潔で通っていた英語の教師が夏休みの宿直時、音楽の教師と不倫をはたらき、休みが明けると学校中に知れ渡ってしまった。深夜に体育館のマットの上で、裸で抱き合っていたところを用務員に目撃されたらしい。どこから漏れたのか尾ひれがついて、泥仕合の愛憎劇に仕立て上げられていた。
前の年の春、芸大を出たY先生はN中学に赴任してきた。担任として初めて受け持つのが三年に進級した私たちのクラスだった。まだ、教師が懐きがちな権威主義や陥りがちな俗物根性に染まることもなく、芸術の素晴らしさを伝えようと理想に燃えていた。着任して間もなく、校庭があまりに殺風景なので、自作の成人男性の彫刻を置いた。骨格や筋肉がつぶさに判るリアルな裸像で、なかなかの迫力だった。立派なペニスも付いていた。田舎の子どもたちは無邪気に「Hの像」などと囃し立てた。それを耳にしたPTAからクレームが入り、彫像にパンツを穿かせろ、と校長に要望が届いた。
Y先生は烈火の如く怒り、芸術の何たるかを滔々と生徒たちに説いて聴かせた。教師たちの俗物ぶりに日頃うんざりしていた私には、その姿が凛々しく映った。
生徒のなかには、親の意見をまともに受けて、したり顔に「風紀上、問題ではないか」などと声高に主張する者もいた。しかし、そんなこともあって、私は先頭に立って裸像にパンツを穿かせるなどという愚行に反対した。その一件から、私とY先生はすっかり意気投合した。そして、Y先生は卒業式の日に、私を呼んで、紙袋に入れた一本の金属板をプレゼントしてくれた。両端が緩やかに湾曲した、十センチほどのものだった。大きさの割にはズシリとした手応えがあった。
「何ですか、これ?」
初めて目にするものだったので訊いてみた。Y先生は笑って答えなかった。
高校に進学した私は、選択科目で音楽と美術のどちらを選ぶかで迷っていた。その頃の私は、当のY先生に感化され、油絵が好きになりかけていた。一方、ギターも覚えたてで、下手ながらバンドを組んでクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングや、まだブルースに片足で踏み止まっていたフリート・ウッドマックのコピーを奏っていた。どちらにするか難しい選択だったが、結局美術を選んだ。
最初の授業で自画像を描くことになった。鏡越しのデッサンを終え、彩色に初めて油絵具を使うことになった。絵筆では思い通りのタッチが出せずに戸惑っていた。ナイフはまだ買い揃えていなかったので、例の金属板でパレットの絵具を掬おうとした。すると、「おっ、それどうしたんだ」とS先生が声をかけてきた。
「中学で担任だったY先生から合格祝いにいただいたんです」
「奇遇だな。それは私がY君にあげたものだ」とS先生は応えた。
退職を来春に控えたS先生もY先生と同じく、N中学からN高校を経て、芸大の西洋画科に進んだ。Y先生が高校を卒業する際、進学祝いとして贈ったものだという。
「そうか、今度は君なのか」とS先生は私の顔をまじまじと観た。
私にはS先生やY先生ほど絵の才能はなかった。S先生からはしきりに美術部に入るように勧誘されたが、結局入部しなかった。早くに父を交通事故で亡くし、二人の姉とともに女手一つで育ててくれた母の苦労をつぶさに見ていたので、経済的に負担の少ない大学に入らなくてはならないと自分に言い聞かせていたのだ。
平穏に過ぎる高校生活に、思いがけない出来事が起きた。N高校では二年次までに所定の教科を終え、三年次は受験対策に充てていた。合格実績を何よりも優先していたのだ。それを「飼育教育」と指弾する者が生徒のなかから声を挙げ、グループを形成し、学園紛争へと発展していった。
卒業間近の一月には、連日、他校の生徒も加わって、デモ隊が学校に押し寄せ、しばしば休講になった。
「I、お前はどうするんだ。逃げるんじゃないだろうな」
生徒の間では、デモに参加するか否かが生きる誠実さの試金石のようになってしまっていた。
デモから距離を置いた私は、読書と受験勉強の合間に、自転車にイーゼルとキャンバスを積んで、寒風の吹きすさぶ河川敷に絵を描きに出た。街道に沿って流れる川の上流には山の端に切り取られた小さな空に幾つも雲が浮かんでいた。
「Bows and flows of angel hair And ice cream castles in the air And feather canyons everywhere I’ve looked at clouds that way 弧になって流れる天使の髪 浮かんだアイスクリームのお城 至る所に羽の渓谷 そんな風に雲を見ていた私
But now they only block the sun They rain and snow on everyone So many things I would have done But clouds got in my way でも今は太陽を遮っているだけ みんなに雨や雪を降らせたり 私はいろんなことをするはずだったのに でもいろいろな雲が私を退けた
I’ve looked at clouds from both sides now From up and down and still somehow It’s cloud illusions I recall I really don’t know clouds at all いま見方を変えて雲を見てみた 見上げたり覗いたりして、でもなんだか その雲は想い出にある幻 本当は雲のことなんか何も知らない」
一人になると決まって、ジョニ・ミッチェルの「Both Sides Now」を口遊んでいた。雲の上と下に想いを馳せ冬の河川敷に佇んでいると、足元から寒さが全身を包むように上がってきた。急いで画板から例の金属板を取り出し、眺めてみた。
「こいつをどうしよう」
その頃になると、本来のペインティングナイフは買ってあったので、もうその金属板の使い道はなくなっていた。
春が来て、大学の合格発表があり、私は第一志望校に入ることができた。デモに参加していた生徒の多くは(リーダー各は成績優秀者が務めていた)志望校を逃していた。合格の喜びもそこそこに、私は逃げるように故郷を後にした。
都内の下宿に荷物を運びこむ際、画材とイーゼルは置いてきたものの、例の金属板だけは持ってきた。ついぞS先生もY先生もこの金属板の使い道を教えてくれなかった。
「S先生もY先生もなんで教えてくれなかったのだろう」
机の上に置かれたその金属板を見るたびに、考え込んでしまった。
還暦を過ぎて私は長年勤めた商社を退職した。今となっては楽しかったこと、嫌なことが綯い交ぜになって蘇ってくる。時の流れは誰にも平等で、S先生もY先生も既に鬼籍に入ってしまった。故郷からもすっかり足が遠のいてしまった。私は今も、机に置いて、その金属板を眺めることがある。窓硝子越しに差す陽光に照らされて、鈍い光沢を湛えている。表面に処理を施してあるのか、特段手入れをしなくても錆びることもない。見詰めていると、ふと、バンドで奏っていた曲ではなく、ジョニ・ミッチェルのあのメロディーと河川敷の冬の風景が鮮やかに蘇ってくる。
窓越しに入ってくる光と、光が造る長い影。
いつまでも、五十年近く前の疑問をそのままに、まだ私の机の上に在る。
「先生たちは私に何かを伝えようとしたのか、それは何か」
「それとも私は美術の教師になって、また有為の青年にこの金属板を渡さなくてはいけなかったのだろうか」
それが先生たちの自分への期待だったのだろうか。
しかし、今となっては、その答えが見つかったところで疾うに手遅れになってしまった。
私の人生は誰の意思とも交わることもなく、青春の影と光のなかに過ぎていこうとしていた。