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第九十三話 悪魔の愛した万能鍵


社会人になってからも学生時代の下宿にそのまま住み続けていた。
モルタルの外壁には黒黴のような汚れが付いた、六畳間と小さな流しがついただけの何とも冴えない古い下宿の二階だ。毎月の賃料に汲々としていたわけではない。それに、多少だが蓄えだってあった。洒落たワンルームマンションに引っ越してもよさそうなものだが、引っ越しのことを考えるとその煩雑さにかまけてもう十年近く居続けている。採り得と云えば、二階の角部屋なので陽当たりが良く、入り口の対角線の左右の壁に窓があることぐらいかな。
木枠の窓ガラスは木枯らしに弄られると小刻みに揺れ、隙間風が遠慮なく入ってくる。入り口は引き戸になっていて薄い板に木枠の簡単な造りだ。そこに安物の南京錠がついている。力任せに引きちぎれば取れてしまうが、室内にはさしたる金目の物も置いていないのでそのままにしてある。
「たまにはどうだい?」
帰り端だった。
商社にいっている学生時代の悪友から携帯にメールが入った。
その日、梯子をし、最後に新宿のゴールデン街の行きつけの店でウィスキーのボトルを一本空け、0時を回ってから下宿に辿り着いた。覚束ない足取りを何とか纏めて二階に上がった。部屋の前まで来てポケットを探ったかが、鍵がない。ズボンのポケットから上着の両脇、胸ポケットとあちこち探してみたものの出てくる気配は一向になかった。
「どうしたんだろう」
一件目、二軒目の勘定の際には、上着の右のポケットに鍵の当たる感覚が確かにあった。三軒目の薄暗いバーで勘定の際に財布を出したとき、落としてしまったのか。
「こうなったらやむを得ない」
力を込めて南京錠を引き毟った。
酔いが加勢したのか妙に力が入って、右の掌に擦過傷ができている。
これで幾つ目になるのか、また錠前を駄目にしてしまった。
鍵の失くなった錠前はもう役に立たない。削り出したか、鋳型で成形されたか、板金で打ち出されたか、精巧な金属部品で組み上げられた掌中の錠前は、ずしりと重く存在感がある。これだけしっかりと造ってあるのだ。
「おいそれとは捨てられないな」
貧乏性の癖がこんなときにも顔を出す。
「仕方ない、新しい錠前と鍵を買ってくるしかない」
こんな失態を続けていたので、勢い、私の机の抽斗の中に錠前ばかりが溜まってしまった。
ひょっとしたらと思って他の錠前の予備の鍵を持ってきて差し込み、ガチャガチャやってみるのだが、当然のことながら、開く筈もなかった。
「成程、一対一で対応していてこそ錠前として役立つんだな」
役に立たなくなった錠前は、今では抽斗には収まり切れず、頂き物のクッキーのブリキの空箱に使える物と一緒に放り込んである。管理が悪く、どの鍵がどの錠前に合うのか、ほとんど判らなくなっている。たくさんの予備の鍵のなかから錠前に合うのを探し出すのも大変な作業だ。
かくして、私の手元に残った鍵の無い錠前は恐ろしい数に上った。
「さて、この溜まった錠前をどうしたものか」
金属スクラップとしてリサイクルに出すしか手はないものか。丹精込めて精巧に造り上げたものを鋳溶かしてしまうのも何だか済まない気がする。
リサイクルショップに持ち込んでも「錠前だけでは役に立ちません。鍵とセットでなければ」と一蹴されてしまうだろう。
「なんとかしなくては・・・」
役に立たなくなったとは云え、それぞれが手にずしりと重く、なんだかそれだけで立派なもののように感じてしまう。矯めつ眇めつさんざん弄繰り回していた。
すると、「素晴らしいアイデアがあるよ。どんな錠前にも対応する『共通の鍵』を造ったらいいんじゃないかな」と、耳元で低く囁く声がした。
「なんでそこに気がつかなかったのだろう」
小躍りして、駅前の鍵屋に相談にいった。
「どんな錠前でも開けられる鍵ですか? そんな魔法のような鍵なんて、漫画の世界じゃなくちゃありませんよ」
鍵屋は小馬鹿にして、端っから取り合わなかった。
「それなら自分で造ったらどうかな」
また耳元で低く囁く者がいた。
「そうか、成る程妙案だ。だが、どうすればよいのだ?」
無暗にやってもうまくはいかない。
「錠前をタイプ別に分け、その中から代表的な形の物をいくつか選んで分解したらどうだろう。少し考えれば判ることじゃないかな。つまりだね、まず鍵の入る形状を洗い出し、パソコンコンに入力したまえ。そして入力したデータから、たぶんこれが鍵のポイントとなるだろうという共通の形状を探ったらどうだろう」
耳元で低く囁く声のままにやってみた。が、思いがけず手古摺った。
最初はすぐに共通する形を探り当てられるだろうと多寡を括っていたのだが、どうしてどうして、形だけでなく大きさや厚みも考慮しないとうまく開かないことが判った。何度トライしてみても大きさの違いを克服できなかった。
「やれ、やれ」
それから半年、仕事が終わると一目散に帰ってパソコンの前に座った。
研究に研究、試作に試作を重ね、ついに完成した。
「どの錠前にも対応する鍵がやっとできた」
鍵は意外にシンプルな形状をしている。あまりに平凡すぎて拍子抜けしてしまった。
とはいえ万能鍵が完成したのだ。私は逸る心を抑えて、その鍵を溜まっていた錠前に手あたり次第差し込んでみた。すると、あの錠前、この錠前、どの錠前も易々と開くではないか。
「こいつは凄い、なんて素晴らしい鍵なんだ」
嬉しくなってきた。
開けてあけて、閉めてしめて、開けて閉めて、また開けて閉めて、・・・。
鍵が開くということがこんなにも楽しいものだとは終ぞ知らなかった。
これでもう鍵を失くしても安心だ。心置きなく酔っぱらえる。
「万歳! 万歳! 万歳だ」
遂に神は降臨された。
人類に平和と安寧が齎されたのだ。
「この鍵が世界中に普及すれば・・・」
そう思うと急に力が抜け、一呼吸置いて目の前が真っ暗になった。
「何故って?」
だって、万能鍵が世に出たりすれば、鍵屋の商売は上がったりだ。
それに、あまり大きな声では言えないが、万能鍵を善からぬ輩が手に入れたら、もうこの世は無法状態だ。何よりひとつの鍵で全ての錠が開くことによって、鍵の存在そのものが根底から否定されてしまわないか。
その時、また耳元で低く囁く声がした。
「気が付いたかな、世界がこれまで秘匿し続けてきたことに」
「世界が秘匿って?」
「ふふふふ、これまで一対一対応で成立してきた鍵と錠前の関係、それはあることのイコンなのだよ」
「イコンって?」
「まだ判らんのかね。一対一対応の錠前と鍵の関係、それは現代の家族の構成原理である一夫一婦制と同じなのだよ。もし、万能鍵がこの世に出現したら、それこそこの鍵の世界の一夫一婦制が瓦解してしまう。そうなると世界にカオスが訪れ、収拾のつかないことになってしまう」
「だからどうした。鍵と家族にどう云う関係があるのだ」
「鍵の世界の混沌はいずれ家庭にも及ぶ。この一対一対応の関係を根底から覆す張本人、それはお前だ。家族の絆を毀ち、家庭を崩壊させ、世界壊滅の首謀者と云うことになるが、それでも好いのか?」
あまりに飛躍した立論ではなかろうか。
「万能鍵の発明が人類の滅亡に繋がるなんて、牽強付会も好いところだ。だが、たかだか鍵の発明で人類の未来に咎が及ぶのなら・・・」
とは云え、半年の研究の成果が無駄になるのはなんとしても残念だ。
「どうしたものか」
無い知恵を絞りだそうと努めた。だが、無いものは所詮無いのだ。
「こうなったら止むを得ない」
未来の人たちから恨まれるのも詮無い事だ。
「ええぃ!」
せっかくの鍵をクッキーのブリキの空箱に放り込んだ。
するとその時、遠く近く、低く高く、フフフフフと憫笑する声が天から降ってきた。
 

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