第九十一話 蟻螻とハンミョウ
家の周囲に神社が三軒在る。
神社を数えるのに「軒」といっていいものか定かではない。他に数詞を知らないので、取り敢えず「三軒」としておく。
それも、揃いも揃って二、三軒隣の眼と鼻の先に在る。
伊津奈大権現と庚申様は宮司もいない小ぢんまりとしたものだが、護国神社は県下屈指の規模のものだ。
護国神社は古来、各行政区に隈なく建立されていた。それを、近代国民国家が派兵する際、後顧の憂いがないようにしつらえた精神的バッファーの空間へと意匠を変えさせた。この手の施設は近代国民国家であれば、世界中のどこの国にも存在する。「英雄墓地」とか「英霊の墓」の名が付され、神聖な場所として政治的にデリケートに存在している。
山の登り口にある護国神社の境内には、景観の演出としてか、斜面の崩壊を防ぐためなのか、数多くの松が植えられている。ここの松林も例に漏れず、カミキリムシに寄生して木から木へと伝染するマツクイムシにやられ、立ち枯れした木が目立つようになった。
神社は自衛の策を講じた。マツクイムシが活動を始める春先に防虫剤を煙にし、巨大な扇風機で松林に送りこむと云う挙に出た。松林全体を薫蒸しようというものである。空には仕切りがない。殺虫剤の煙は松林から漏れて近隣の人家にまで押し寄せる。苦情が嵐となって帰ってきた。ここ数年来、薬剤の散布は行われなくなったが、食われるべき松は枯れ、耐性のあるそれは生き残り、神社の風景は安定した。
犬の散歩の折りや家への帰り道に、ときどきこの神社に寄ることがある。特段気にいった場所と云うわけではないが、都会の喧騒で頭がほてったときや一人になりたいときに足を向ける。ここには静けさがある。
榊や椎の木陰に石造りの床几が点在している。座ってしまうと気付かないが、離れた場所から観ると床几の下だけ白い。長い年月、風雨に曝されて砂地になっているのだ。床几に座って下を覗きこむと、小さな擂り鉢状の窪みが幾つか眼に入る。蟻螻の巣である。驚くほど正確に造られた、円錐を伏せた形にきれいに穿たれた砂の器。人の手ではこうはいかない。円錐の頂点の部分に居を構え、満遍なく律儀に砂を跳ね上げ、この形を形作っている。
蟻螻の主は長じてウスバカゲロウになる。
五月。とうに立夏の頃を過ぎて、何日か過ぎた暖かな午後。書斎で原稿を書いている腕にチクチクした微かな痛みが走る。虫にでも刺されたのかと観てみるのだが、特段、それらしき虫も見つからない。しかし、原稿の書き始めはなんともないのだが、書き進むに従って次第に仄かな痛みを感じる。そんな状態が幾日か続いた。皮膚に痛みを感じるのだが、見えるところにその原因を見つけられないとしたら、後は筋肉か内臓の疾患ということになる。そうなると事は重大である。心配になって右腕を指先から仔細に眺めてみた。すると小さな、本当に小さな芥子粒のような赤味がかった蟻が二の腕を這いまわっている。文机の上を観ると、茶色のラッカ―で塗られていたために保護色になり気付かなかったのだが、小さな蟻が大挙して卓上を傲岸に歩き回っている。
夕飯時、妻にここ数日の痛みと、その原因が小さな蟻だったことを話した。
「あら、そう」
妻はさしたる関心も示さなかった。
奴らの出没は昼間に限っていた。そこで、休日を返上して原稿に向かっていた日曜日の午後、妻に声をかけて蟻が食いついている二の腕をみせた。
すると妻は、
「蟻なんていないじゃない、それより風呂場の床下の白蟻のほうがよっぽど心配だわ」と取り合わなかった。
確かに、これだけ小さければ年寄りの眼には視認しにくいのは判る。だが、確実に奴らは私の腕に咬みついているのだ。
「信用しないのなら、明々白々たる証拠を見せれば文句はあるまい」
翌日、腕に咬みつく蟻を一匹ずつ潰し、ティッシュの上に並べてみた。食事の前に見せるのも憚られたので、食後に、おもむろに蟻の死骸を満載したティッシュを女房の前に差し出した。
「えっ、何もいないじゃない。また、あなたの飛蚊症か錯視じゃないの」、と言って一蹴されてしまった。
「蟻は確かに、ここにいるじゃないか」
白いティッシュの上に何十匹と赤茶けた芥子粒ほどの蟻がいるではないか。私は、蟻を丁寧に包んだティッシュをポケットに仕舞い、護国神社へと向かった。蟻螻の巣は、石造りの床几の下に等間隔の距離を保ちながら、いくつも口をあんぐりと空けていた。私は持ってきたティッシュを開き蟻螻の巣の上から、それをパラパラと播いた。暫く待った。しかし、一向に奴は出てこない。暫く待った。それでも出てはこない。それならと近くに落ちていた尾花の穂でくすぐってみた。すると砂粒を飛ばしながら地表近くまで出てきた。そしておもむろに蟻を投げ返して寄越した。
「死んだ蟻では不満なのか。そっちがその気なら、こっちにも考えがある」
数日が経ち、夏もその勢いを盛りにした午後、私は河原で捕虫網を使って捕獲しておいたハンミョウをその蟻螻の巣に落とした。ハンミョウは鎧のように堅固な外羽を瑠璃色に輝かせながら、蟻螻を狩りにかかった。