着物は業のようなもの①
着物は業
女性にとって、着物はある種の業のようなものではないか、と最近思う。
たかが服。
されど服。
新しい服は新しい世界に連れて行ってくれる扉なので、たかが、とは言えないのだけど。
着物は業が深い、と思う。
母から子や伯母/叔母から姪などの関係性で受け継いだりして、物を繋いでいくからだろうか。
下世話なことを承知で言うと、七五三や成人式、結婚式や入学式/卒業式以外の場で、誂えられた着物をきちんと着ている女性の姿を見ると、あ、有閑マダムなのかなと思ったり、きちんとした(いいとこの)文化資本を持っているんだなとか、つい勝手に想像してしまう。
そしてその考えは、大っぴらに語られることは少ないけれどわりと一般的なのではないか、と感じる。
普通に生活していたら、現代日本で着物を着る機会はあまりない。
先に書いた式や行事など以外で着る機会などほとんどないと思う。(着道楽は除く。)
もちろん日本舞踊やお茶などの日本文化を嗜んでいる人は、それよりも着る機会が多いだろう。
夜の街のお姉さんがたや、旅館料亭の女将さんなどもよく着物を着る人たちだ。
いずれもあまり一般的ではない、と思う。
母と着物
育ちは一般的な家庭だけど、母の着物が家にある家だった、と書けたらよかったけど、まあそういうのとはだいぶ違う。
核家族が増えてサラリーマンと専業主婦と子どもの家庭が多数派になった時代において、家の内装は2世帯住宅にしないまま2世帯で暮らしているカツオとワカメのいないサザエさんの家を地で行くような暮らしだった。
母は当時にしてはめずらしい方の働く女性だった。
そんなに裕福なわけではない。
ただもともと豊かな文化とは縁の薄かった(母方の)祖母が、都会の華やかな文化に憧れ、その時代の女の人としては珍しく働いていた上そこそこ経済力があり、何を買ったらいいのかという知識はあまりなかったけれど、着物を買いたい、着たいという気持ちで買った着物たちが家の桐箪笥に眠っていた。
桐箪笥…、いったいいくら払ったんだ…と思うけど憧れとは概してそういうものだ。
そして祖母は欲望に忠実で、時代の流れと運を味方につけ、欲望を実現する能力を持っていた。
そしてまあ悪いことに景気の良い時代の呉服屋さんというのは着物を売るのが仕事であってそれ以外のこと(知識や手入れの方法など)の周知についてはあまり期待できないところも多々あって、きちんと着物のことを教えてくれるお店というのは今より少なかったのでは、と勘繰ってしまう。
繋いでいくものというのは基本的に手入れを必要とするのであるが、何をどうしたらいいのか、という根本的な知識が身に付かなかったのは、忙しさと本人のやる気と(お金で解決できるという)時代性が奇妙に交錯した結果のような気がする。
祖母本人は何度も近所の美容室で着付けてもらっていくつかの行事やイベントに着物であちこち出かけたあと、人生の途中で一人娘になってしまった母にもいくつか着物を誂えていた。
そのうちのひとつである母の振袖は豪華な古典柄で、金額を想像すると目眩がする代物である。
母は成人式、大学の卒業式、親戚や友人の結婚式、母本人の結婚式のお色直しにと着倒したあと、箪笥で静かに眠っていた。
母は誂えられた着物について、モノを与えられたはいいものの、それらをどう扱うかは(最終的に節目では着倒すにせよ)図りかねていたのかもしれない。
お友達の結婚式やパーティー、七五三や私の卒業式なんかの時には着物を着ていたので、付け下げや色無地の着物はなんだかんだ節目では活躍していたように思う。
ただ母の周りの誂えてもらった着物を着る習慣のある友人たちとは何かが違う気がするという違和感を抱いていたのだろう。
それらを消化できたのは、傍から見ていると50を過ぎてからだったと思う。
ちなみに母は若い頃着付けを習っていて、いちおう自装(自分着物を着ること)までは習得したらしいのであるが、手間とめんどくささで次第に着物を着ることも無くなってしまったようだ。
なお最近は再び着付を習っているので、その頃に比べてよく着物を着ている。
誂えられた着物は振袖、色無地、付け下げの他にいくつかの友禅の小紋や正絹着物や帯があり、あまり着られた気配のなかったそれらの着物はいつか私がきてみたいな、と思っていた。
ごく稀にそれらを箪笥から出す時に祖母は、それはお出かけ着だからお式には着ていけないのよ、と言っていたのもよく覚えている。
そしてそれらお出かけ着の着物は今、ほとんど自分は着ている。
あちこち崩れてるけど、自分で着て出かけられたので自信がつきました。
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