葬式と電車内
もしいつか私が亡くなった時、おそらく葬式が挙げられるだろう。棺桶に入った亡骸は大抵目をつぶっている。その顔を見て参列者たちは、まるで安らかに眠っているかのように感じ、手を合わせる。
目をつぶっているということは、自分の周囲で何が起こっているかを一切感知しない、その現実の外にいるという様が見て取れる。葬式では、その目をつぶっているところから現世の外に行ってしまった私を読み取る。
電車の中だと目をつぶっているということは寝ている、あるいは考えにふけっているということでその車内では反応しない物体と同じようなもので、つぶっている自分も、外の車内とは関わりのない関係性を持つ。そして目を開けた瞬間に、前の駅まで目の前にいた見目潤しい大美人がブルーカラーの味わいのあるおっさんに変わっていたり、外に出るのも大変であろうおばあちゃんがつり革に掴まっていたりして気まずくなったりする。
葬式では現世から旅立った私は、大体が空の上へ向かって昇天していくところをイメージする。私は空からあなたたちを見守っている。電車で目をつぶっている私は、まぶたの裏側にいる。つまり体内にいるわけなのだが、それは電車の外だと認識される。外、内、外と入れ子状になっている。目をつぶっている時に、私は内にいる、と思うか、私は外にいる、と思うかは気持ちが違うような気がする。
亡骸の目は安らかに眠っているが、その耳は未だに開いたままだ。電車の中で目は閉じていても、会話や走行音は聞こえる。耳は安らかに眠ることはなく、常に起き続けている。外に向かって開き続けている。棺桶から聞こえる皆の会話を聞いてみたいとは思わない。