2種類の悲鳴 ・ブラウン管と液晶ディスプレイ
家庭用のテレビが普及してから、モニターは家電として私たちの生活に深く根ざし、一家の中心に最新の音と情報を提供してきた。そのモニターには二つの時代がある。ブラウン管と、液晶ディスプレイである。
ブラウン管のTVに強力な磁石を当てると、映像を走査している電子銃の軌跡を曲げ、サイケデリックな色とともにその像が曲がる。子どもの時にそのことを知った僕は、好奇心からよく冷蔵庫にチラシを止めてあった磁石を外し、モニターに近づけた。目の前で発行するアニメキャラクターやアナウンサーの顔がゆがみ、紫色や青色に変色していく様はちょっとした怖さとともにとてもおもしろかった記憶がある。あんまりやりすぎると電子線が曲がったままになってしまいしょっちゅう怒られた。目の前のものをハッキングし、ほかの特性を露にさせるという改造欲のようなものを満たしていた。この様子はyoutubeにも多数の動画が上がっている。世界各国でも面白いと思っているらしい。ブラウン管に磁石を当てるのを。
「MIT Physics Demo -- Magnetic Deflection of a TV Image」より(https://www.youtube.com/watch?v=YbzBTdU7iRU)
文字通り完全に狂ったモニターは像をゆがませ、まるで悲鳴のような光を鮮やかに明滅させ、その様に少しでもきれいと思ってしまうという感覚は、常に自分の関心にあった。液晶の時代になり、像は高精細になるとともにどんどん薄型になっていき、大画面であってもあまり奥行きを取らず、壁と同じような位置となっていった。しかしそれゆえに立て付けのバランスが悪くなり、ブラウン管よりは倒れやすくなった。またモニターの強度はガラスよりは弱く、少し強く叩くと像に亀裂が入ってしまうようになった。液晶は一度壊れると二度とは戻らない。死んだまま発光し続けるモニターは亀裂に沿ってじつに豊かな色を表示し、まるで精巧に織られた絨毯のような点と線を発した。この様子もyoutubeに多数動画が上がっている。世界各国でも支持されている狂気なのだろう。
「smashed lcd screen」より (https://www.youtube.com/watch?v=zApsd4pUX8w)
上にも書いたが、それぞれの画面の破壊直後の様相はブラウン管は狂っていて、液晶は死んでいる。ブラウン管の悲鳴の様子は、面的であり、一つの像を結ぼうと協働している走査線の集合が、集合のまま像をゆがんでいる。それは連続的なもので、自分が磁石を操っている限り歪み続けるが、長く時間をかけない限りは、磁石を離した瞬間に正常に戻ることができる。それは人間の脳が正常な状態から外部からの圧力で狂い、また時間とともに落ち着きを取り戻すかのように。
対して液晶のそれは、完全に表面に亀裂が入ってしまうため、像を結ぶという役割から外れ、破壊されたモニターとして、存在が固定される。死体になる。そこには協働した像はなく、モニターのピクセルひとつひとつが決して交わらない光を明滅させる。そこに意味をとらえられない。いままでの正常な時間から断絶される。亀裂を映し続ける。
傷つけてしまうと取り返しのつかない結果になってしまうほどメディアは私たちに肉薄しているとも言える。モニターの向こう側とこっち側の世界の境界はいまやブレて来ている。どんなに強固なキャラクターや世界観もSNSの不特定多数との関わりを通して個々人の世界に細かく分解され、相対化されてゆく。n次創作やちょっとした発言による炎上という形で、今までの像は結ぶことができなくなる。
対してブラウン管のそれは、自らのモニターを以ってその脅威から向こう側のの世界を守っている。そのかつての表現にも見えてくる。テレビがただ一つの映像メディアだったころ、世間と芸能界、また世間と現場は完全に線引きされたものだった。モニターの向こう側は一般人がそのままでは決して関与できない神聖な世界であった。その世界を相対化から守るため、強力な磁石をあてがわれ、苦しく歪んでもなんとか像を保とうとするその姿は、致命傷を負ってもなお守りの姿勢を崩さない聖域の門番のようにも見えてくる。
ブラウン管とともに名将は退場し、聖域は開かれつつある。モニターには二つの時代がある。磁石で歪む悲鳴を受けながら聖域を護ってきた時代から、二度と戻らない世界に悲鳴をあげる時代である。