−深紫− エリートたること
社会は、エリートに対する大衆のルサンチマンで覆い尽くされている。
ここで言うエリートは、オルテガが「高貴な人」「選良」として次のように定義した人のことである。
それに対し、オルテガは「大衆」について
と述べている。
社会は、エリートの自己超克のための努力によって成り立っている。
しかし、大衆はその事実に目を向けようとしない。恵まれし社会はアプリオリに構築されていると信じ込もうとする。
大衆は、エリートの自己超克のための努力も、エリートにアプリオリに備わった能力だと主張する。
そして大衆自身はその努力にエネルギーを割こうとは決してしない。「努力しない、できない」状態が、「みんなと同じ」であると満足する。
そんなルサンチマンが、この社会のマジョリティである。
そこでは、行き過ぎた功利主義が跳梁跋扈し、エリートたちの能力の高さに起因するマイノリティ性は尊重されない。
それどころか、エリートはルサンチマンさえも超克することを要求される。
しかし、その要求は無謀である。
エリートは、理不尽に耐えるタフネスを必ずしも備えていない。
備えているべきと解されるべきでもない。
東京大学憲章には、「市民的エリート」が掲げられている。
「市民的」とは何か。
鷲田清一さんの『パラレルな知性』には次のように記されている。
専門家は、自分の専門性を追究するだけではなくて、自分と異なるコンテクストを持つ「市民」と協働して問題解決のコンテクストを創出することが重要であると主張する。この「専門的知性」と「市民的知性」の両立を、鷲田さんは「パラレルな知性」と呼んでいる。
だが、ここで想定されていることは、エリートの周りには「市民」がいる、ということである。そこには「大衆」はいない。
大衆がマジョリティとして君臨する社会では、エリートの知性は疎外される。
市民的エリートは、市民がいる社会からしか生まれ得ない。
こんな困難な社会においても、ぼくは市民的エリートたらねばならないのでしょうか。悠々とルサンチマンを超克していかなければならないのでしょうか。それがnoblesse obligeでしょうか。
【深紫】こきむらさき
紫草の根を何度も繰り返し染めた色。
養老の衣服令によると、一位の位袍は深紫。