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小説の読書体験は脳機能を利用したクロスリアリティ

読書離れ。今やもう見慣れてしまい、斬新さすらなくなったワードになっている。それでも本がなくなることはない。小説もしかり。

そんなの当たり前と思うかもしれないが、昔やっていた娯楽やすっかり見なくなった遊びだってあるはずだ。にもかかわらず、小説は未だに親しまれている。
小説は誰かを魅了しつづける原石であると思っている。それくらい魅力のあるものだと知っているから、今も小説は読まれているのだろう。

私も同好の士であるが、ふと思う。
私にとって、小説を好んでいるのは当然のことだが、小説を好んでいなかった人生だってあり得たんじゃないだろうか。

なぜ、自分は小説を読むようになったのか。

そんなどうでもいいような疑問が思い浮かんだ。

小説を読むのが好きな人は今でこそ珍しくなった。同系統の娯楽の中ではたいていアニメや漫画が主流だろう。更に現代では動画コンテンツの隆盛りゅうせいぶりが目覚ましい。伸びしろはまだまだある。
そちらに傾倒けいとうしていき、小説はもう読んでないなぁ、みたいになってもおかしくなかったと思う。

それでも小説を読んでいるのは、たぶん小説でしか味わえない感覚があるからだろう。
これは読み方のクセのようなものにも関係しているので、必ずしもみながそうではないが、私は小説の文章を読み取って映像イメージを脳内に投影する読み方をしている。しかし、その脳内映像はあらいし、安定した映像にするのに時間もかかる。小説を読むうえでその点は問題にならない。4K並みの綺麗な映像でなくとも、そこに小説で読み取れる空間と登場人物の言動さえあればどうとでもなる。

読み取っていくうちに空間ができ、音色を持って、情感が伝わってくる。すると、その空気感を味わっている錯覚におちいっていく。その感覚がたまらない。これはある種、VRやARに近いのかもしれない。あれはデバイスが映像を起こしてくれる。
小説から映像を起こす際は脳がデバイスの代わりになる。そう考えると、脳の機能を使いまくってるなと思う。考え事が頭に残っていたり、体調が悪い時、脳が疲れている時は小説を読めないことがある。

それは脳の処理能力がいつもと違うからだろう。バックグラウンドで動かしてるものが多すぎて、処理落ちしてしまうのかもしれない。
そう考えると、もっとパフォーマンスを落とさない読み方がいい気もするが、小説を読む時はいつもそうしてきたので、こればかりは変えようがない気もする。
それが私の小説の楽しみ方でもあるので代えられない。
この感覚こそ、私が小説を好きになった理由だろう。

自分の脳内で小説の世界を形成する。
VRやARなどの総称であるXR=クロスリアリティがまさに私にとっての小説だった。
だから小説は決して古くないし、むしろ現代的であると個人的に思っている。
もっと深みにハマってしまった結果、私は小説を書いているのだと思う。
さて、今宵も潜ってくる。

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國灯闇一
未熟な身ではありますが、一歩ずつ前へ進んでいきたいと思います。

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