六題話

お題:卵、ガム、烏龍茶、停留所、論理学、望遠鏡

上手な嘘

なまぬるい雨の最初の一粒が僕の鼻の頭を叩いた。驚いて目を瞑ってしまった僕を見て彼女が笑った。目の周りを真っ赤に腫らしながら笑った。もちろんそれを見て僕も笑った。きっと僕の目も真っ赤だった。二人してそうして笑いあった。きっとなにかを言葉にしたら、身体中の大事な物がそのまま流れ出てしまいそうだったから。

だから僕達はしばらくそうして。言いたいことも、言わなきゃいけない事も分かっていたけれど。口を開いてしまわないようにミントガムを噛もうかと少し考えてやめた。そうしたらきっと後悔すると思ったんだ。

ああ、見てしまった。僕は時計を見てしまった。僕の鼓動は秒針より速く打っていた。所在なく指でぶら下げたペットボトルの烏龍茶が波打つ感覚で自分が震えている事に気がついた。見てはいけないと頭では分かっていた。でも見なければならなかった。もう時間はないんだ。僕が認識していない間も時は流れていた。僕の頭の中に住み着くいけすかない論理学者がしたり顔で言った。そいつの顔面を何度も殴りつけた。きっと彼女を抱きしめる力が強くなっていた。きっと彼女は僕よりも前にそれに気付いていた。だから彼女は言った。

何か嘘をついて。

一昨年の春、親鳥の帰ってこない燕の巣を見つけて君はひどく心配していただろう?実は僕は見てたんだ。次の日に卵からキラキラ光る宝石みたいな鳥が産まれて、そのまま空に飛んでいく姿を。

そうだったのね、教えてくれれば良かったのに。とても安心したわ。

去年の夏、二人で何度か天体観測に行っただろう?君があんまりに星を見つけるのが下手なもんだから、コップで掬った小さな宇宙をこっそりあの望遠鏡の中に入れておいたんだ。

そうだったのね、おかげで素敵な星空を楽しめたわ。素敵なプレゼントをありがとう。

ねえ、僕はけしてどこにも行かないよ。ずっと君のそばに居る。やっぱり東京に行くなんて辞める事にしたんだ。本当だ、これは本当なんだよ。どうかしてたんだ。こんなの間違えて

下手な嘘ね。

僕の言葉を遮って彼女はキスをした。
本当だ、嘘じゃない。その言葉を喉の奥から引っ張り出そうとしていたのに。停留所には僕を1000kmの彼方へと連れ去ろうとするバスが到着してしまった。ああ、添乗員が僕の名前を呼ぶあの声こそが嘘ならいいのにと、最後に二人で少しだけ笑って。
最後まで惜しんだ指が離れてしまうその時まで、二人で笑って。
それがこの夜で一番上手につけた嘘だった。

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